「変えてはならないもの」は時に命に等しい【聖書からよもやま話624】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エゼキエル書の48章です。よろしくどうぞ。

エゼキエル書 48章14節

彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を譲り渡してはならない。主の聖なるものだからである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

長いエゼキエル書の最後の部分ですけれど、ここではイスラエルの各民族に対しての領地分配が記されています。その中で特に神様に使えるレビ人への分配地について、「売ったり取り替えたりしてはならない」と規定されています。

人間は神からあらゆるものを与えられて生きています。人間が持っているもので、神から与えられていないもの、自分の力だけで手にしているものは一つもありません。今日食べる食料も、水も、今吸っている空気も。手にしているお金も、住んでいる家も、着ている服も。そしてこの身体、この心、この命も。すべて突き詰めれば神から与えられているものです。

僕たちはその多くについて、人から買ったり譲られたりしていますし、人に売ったり譲ったりもしています。食べ物は多くの人がスーパーか何かで買ってきます。それはスーパーから食べ物を譲られているわけです。神から与えられた食べ物を農家が受け取り、それを仲買業者に譲り、仲買業者がスーパーに譲り、そして僕たちにスーパーから譲られます。このように多くのものを僕たちは譲ったり譲られたりしながら生きています。

当時のイスラエルの人にとって、土地の売買や交換というのは現代よりも身近なことだったかもしれません。「この方がお互いに便利だから土地を交換しよう」なんてことは今よりも頻繁にあったのかもしれません。そして聖書もそのことを否定はしていません。だからこそ、限られた土地について「ここだけは交換とかしちゃダメだぞ!」と強調しているわけです。

現代に生きる僕たちにとっても、譲ったり譲られたりを決してしてはいけないものがあると、今日の引用箇所は示しています。それは「主の聖なるもの」であり「初めの土地」です。僕たちは多くのものを譲ったり譲られたり、つまり人間同士の関係の中で融通しあって生きていますが、僕たちが持つものの中には、そのように人間同士の関係の中で融通してはいけないものもあるんです。
その一つはもちろん命でしょう。これを譲ったり譲られたりするのは許されるものではありません。信仰もこの一つに数えられるでしょう。「便利だから」とか「得だから」なんて理由でこれを譲ってしまうようではいけません。クリスチャンでない方なら信条がこれにあたるかもしれません。

とにかく、人間には人間同士の関係において決して融通してはいけないものがあるということを、聖書は語っています。「何事も時代に合わせて変わらなければいけない」という意見はいつの世でも変わらないものですが、時代そのものも人間同士の関係によって生じるものですから、時代の要請であっても変えてはいけないものが、人間にはあるんです。

聖書は2000年間(正確には色々ありますが)変わらずにある書物ですが、クリスチャンにとってこれはどれほど時代が変わっても、一言一句決して変えてはならないものです。しかし現代ではクリスチャンでさえ、いえ、いつの時代でもいたのでしょうが、「時代に合わせて聖書も書き換えるべきだ」という人が一部います。人間にとってそれは「合理的」かもしれません。しかし、その行為は人間が神の言を書き換える、そして「言は神である」と聖書に書いてありますから、それは人間が神を都合よく作り変えるということです。人間によって都合よく作り替えられた神が、果たして本当に神と言えるでしょうか。

皆さんにとって、人間同士の都合によって決して譲ったり譲られたり変えたりしてはいけないものは何でしょう。一度も譲ったり譲られたり変えたりしたことのないものはなんでしょう。よく考えてみればそれはおそらく誰にとってもそれほど多くはないはずです。

ある人はそれを「憲法」と言うかもしれませんし、またある人は「天皇の男系男子継承」と言うかもしれません。僕個人にとってそれらは聖書に比べれば変わっても変えても構わないものですが、その人たちにとってそれが僕にとっての聖書と同じくらいの重さを持つ、あるいは持ち得ることは理解していますし、少なくとも理解しようと思っています。その人にとっての「変えてはならないもの」は、その人にとって命に準ずる価値を持つものです。ですからそれを「こっちの方が票に繋がるから」とか「こっちの方が経済的利益があるから」とか「こっちの方が便利だから」とか「なんとなく時代遅れだから」なんて理由で軽々しく語ったり、意見の異なる相手を軽視したりするようなことは避けなくてはならないと思います。

「変えてはならないもの」を語ることを否定するわけではありません。しかしそれを語るときには、それなりの敬意と準備と覚悟が必要なのかと思います。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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