「自分の力」から「神の力」へのコペルニクス的転回【聖書からよもやま話300】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、なんと今回で300回の節目を迎えました。皆様ありがとうございます。そして神様ありがとうございます。

今日は  新約聖書、エペソ人への手紙の3章です。よろしくどうぞ。

 

エペソ人への手紙 3章8節

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様は「立派な人」を自分の御用のために用いるのではなく、むしろ「最も小さな者」つまり「最も立派じゃない人」を用いるのだというのが、この聖句のメッセージです。それは、「立派な人」よりも「立派じゃない人」の方が、神様の御用をするにはふさわしいのだということです。

たとえばお金持ちが何か大きなことを成し遂げても「あぁ、あの人はお金持ちだからな。やっぱりお金の力ってすごいよね」ということになって、神様の力に注目する人はあまり出てきません。しかし、ちっともお金持ちじゃない人が何か大きなことを成し遂げたら「わぁ、お金がなくてもこんなことが実現してしまうなんて、神様の力はすごいね!」ということになります。

また、それをする本人も「立派な人」はどうしても「これは私の力で成し遂げたのだ!」と思ってしまいがちです。「立派じゃない人」は「これは私の力ではとても成し遂げられなかったことだ、神様の力が成し遂げさせてくれたのだ!」と神様に感謝しやすいんです。人間はどうしても「自分の力」が好きですし、それに頼ってしまいます。しかし神様は人間が「自分の力」に頼ることを好みません、望みません。
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もう少し正確に言えば「立派な人」「立派じゃない人」というよりは、「自分を立派だと思っている人」と「自分の立派じゃないところを知っている人」と言うことができるかと思います。それは「自分の力に頼る人」と「神様の力に頼る人」と言い換えることができます。世間一般では「神様の力に頼る人」は「他力本願でよくない!自分の力を信じて頑張るべきだ!」と批判されがちですが、聖書の価値観ではそうではなく、むしろ反対に「自分の力に頼るのはよくない!神様の力を信じて委ねるべきだ!」となるんです。

「自分の力」から「神の力」に自分の軸足を移すこと。いわば軸足のコペルニクス的転回が、神様を信じる者には求められていますし、また同時に与えられてもいるんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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