神様が助けてくれない時、地を這う僕たちを神様は見る。【聖書からよもやま話297】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、詩篇の22篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 22篇1節

わが神 わが神
どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イエス様が十字架についた時に父なる神様に向けて放ったことばが、これです。イエス様の十字架よりも何百年も前から、詩篇にこのようにこれが記されていたんです。これはイエス様の叫びであり、ユダヤ民族の叫びであり、そしてあらゆるクリスチャンの叫びでもあります。

クリスチャンとして長年生活をして、神様に「どうして助けてくださらないのですか!?」と問いかけたことのない人はいないのではないでしょうか。クリスチャンは誰しも、神様を信じながらも、いや信じているからこそ、「どうして助けてくださらないのですか?どこにいるのですか?神様!?」と心から叫ばずにいられないような経験をするものです。そのような苦境を通るものです。「通る」というより、神様によって「通される」ものです。

「クリスチャンになればすべてがうまくいって人生ハッピー!!」なんてことはないんです。「神様を信じていればすべての願いがかなって、何もかも好転するよ!」なんてこともないんです。そんなことを言うのはいわゆるカルト宗教さんだけです。むしろクリスチャンは、クリスチャンだからこそ余計に「どうして助けてくださらないのですか!?」と叫ばずにいられないような苦境を通されるものなんです。
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僕は子どもの頃に足の手術をしたしばらく後に、ある日突然、看護師さんに車椅子から下されて「さぁ、ここまで歩いて」と言われたことがありました。「できるわけない!無理!」と思っても、看護師さんは助けてくれませんでした。「どうして助けてくれないの!?」と思いましたし、何度も助けを求めました。でも助けてくれませんでした。それで僕は、どうしても立てなかったけれど、這って進んで看護師さんのところまで行きました。「なんてひどい看護師だ!」と思いましたけど、でも今思えばその看護師さんは助けてはくれませんでしたが、僕をずっと見守ってくれていました。助けを求める声を聞いてくれてもいました。その上で、あえて助けずにいてくれたんです。その時僕はすぐには歩けなかったけれど、「車椅子がなくても這えばなんとかなる」ということを覚え、「車椅子がなかったらどうしよう?」という気持ちから解放されました。つまり僕は車椅子への依存から解放されたんです。

神様が助けてくれない時、それでも必ず助けを求める声は聞いてくださっていますし、ずっと見守ってくださっています。そしてそんな時は、僕たちの「何かに執着してしまう心」から、僕たちを解放しようとしてくださっているのかもしれません。神様が助けてくれない時こそ、何かから解放されるチャンスなのかもしれません。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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