頭から油をぶっかけられたら怒りますか喜びますか。【聖書からよもやま話135】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  詩篇の133篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 133篇2節

それは頭に注がれた貴い油のようだ。
それは ひげに アロンのひげに流れて
衣の端にまで流れ滴る。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

この詩は非常に短くて、わずか3節しかありません。シンプルな喜びの詩なんですけれども、その嬉しい気持ちの表し方が、現代日本人の感覚からすると、ちょっと理解できません。だって、喜びを油にたとえて、その油がひげにまで垂れてきて、挙げ句の果てには服の裾から滴り落ちるほどだと言っているんですよ、この詩。

頭から油をかけられるなんて、少しも嬉しいことではないですよね、むしろそんなことされたら怒りますよね。下手したら警察を呼ばれますよ。しかも服の裾まで油が染み込んで滴り落ちるほどまでになんて、どんだけの量の油ですか。スプーン単位ではそんなことは起こりません。おそらくコップ単位、もしかしたらどんぶり単位の量かもしれません。

もう少し他の比喩とか表現方法はなかったんですか!?
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・・・と、聞きたくなりますが、ここで重要なのは「アロンのひげ」という語です。アロンというのは海割りで有名なモーセのお兄さんにあたる人で、神様から「初代祭司」に任命された人です。その任命シーンがレビ記に記されているんですが、そこでアロンはモーセから油をかけられています。このことから、聖書では「油を注ぐ」というのは、特別な祝福であるとされているんです。新約聖書でもイエス様が香油を頭から注がれるシーンがありますし、イエス様が「油注がれた者」と呼ばれたりもします。「頭から油をぶっかける」というのは、現代ではほとんど暴行行為くらいの暴挙ですが、聖書の世界では名誉なこととして扱われているんです。ですからこの詩人は、「この喜びは神様からの祝福で、服の裾から滴り落ちちゃうくらい豊かだよ!」と喜んでいるわけです。

だからと言って、「聖書流の祝福だよ!」なんて、たとえば誕生日の友達か何かに油をぶっかけたりしたらダメですからね。相手がクリスチャンで聖書に詳しい人であったとしても、たぶん普通に怒られます。だいたい、その後の床の掃除も大変でしょうし、着ている服は再起不能になっちゃうでしょうし、お風呂も油まみれになっちゃいます。ぜひ、現代社会でこれを実践するのはやめていただきたく思います。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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