「私たちの国籍は天にある」ってどういうこと?【聖書からよもやま話132】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、  ピリピ人への手紙の3章です。それではよろしくどうぞ。

◆ピリピ人への手紙 3章20節

しかし、私たちの国籍は天にあります。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「私たちの国籍は天にあります」このことばはとても有名です。洗礼を受けてクリスチャンとなり、つまり神の民となった以上、地上での国籍なんてもはや意味を持たない、関係ないということです。僕もいくらかの時期を海外で過ごしたことがありますが、このことはとても強く感じました。アメリカに行ってもカナダに行っても台湾に行っても、その地の教会に行けば出身国なんて関係なく、そこの教会は「身内」として僕のことを迎え入れてくれました。「日本から来たよそもの」ではなく、「信仰を同じくする同志」として迎え入れてくれました。まさに、国籍なんて関係なく、信条や信仰によって人はまとまるのである、ということを痛感させられる経験でありました。

しかし。

このことばを根拠として、「世界のあらゆる人が、同じ価値観で同じ文化でみんなで共生するのが良い」という考え方には、僕は少し違和感を覚えます。なぜなら、それぞれの個人が、それぞれどのような国、すなわち環境に生まれ、どのような文化において育つかということは、これもまた、神様に与えられたものだと僕は思うからです。どの地のどの時代に生まれるか、ということを、自分で選んで生まれてきた人は一人もいないのですから。

アメリカでもカナダでも台湾でも、迎え入れてくれた教会では「日本のおいしいものを作ってくれ」とか「折り紙を教えてくれ」とか、日本の文化を求められたものです。違いがあるからこそ、教えあって褒めあって交流が生まれます。

そもそも「みんな同じ」というのは不可能なことです。だって極寒の地と常夏の地とは、人が着る服も違えば、食べるものも違います。その「違い」は、悪いものではなく、むしろ神様が人に与えてくださった「良いもの」だと思います。

たとえば、極端な話ですが「みんな仲良くするために、日本の文化を捨てよう」というのは、神様が与えてくれたこの文化を捨てることだと思うのです。身近な例で言えば、少し前に、日本人が麺類を食べる時に「ズズッ」とすすって食べるのは他の国の人には不愉快だからやめよう、という「ヌードル・ハラスメント」なんて言葉が話題になったりしましたが、そんなことは僕は気にしなくて良いと思います。みんなに合わせて自分の特性を消すことが「平和への道」とは思いません。麺類をすする人もいる、すすらない人もいる、それでいいじゃないか、というのが本当の「平和への道」だと思うんです。相手を自分と同じ考え、文化に引き込もうというのは争いにしかつながりません。また一方で自分を相手に合わせて変えてしまおうというのも違います。「違うところは違うままにしておく」というのが、遠回りかもしれませんが、みんな仲良しの道だと思うんです。だって、どれほど違っていても最終的には「君たちの国籍は天、すなわち私のところにあるのだ」と神様が言ってくださっているのですから。

「国籍」は人間の本質ではない。でも、「自分を育んだ文化」は、それなりにその人の本質であると思います。僕はこの日本という文化圏に生まれたことをありがたく思いますし、大切にしたいと思っています。それも含めて、この身も心も神様に与えられた贈り物でありますから。海外の人に肉じゃがを作り、折り紙を教え、剣の道のいくらかくらいは話せるこの身でありたいんです。

みんな仲良くすることと、自分を消すことは違うんです。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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【今日の小ネタ】
肉じゃがを作る時に砂糖をちょっと減らして、代わりにオレンジマーマレードを入れるというのは、一つの妙手です。


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