マジで本気のピンチの時に、本当にクリスチャンは神様に祈るのか。【聖書からよもやま話84】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の142篇です。


◆詩篇142編 表題

ダビデのマスキール。ダビデが洞窟にいたときに。祈り。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


詩篇142篇は、ダビデが王様になる前に、敵に追われて洞窟にまで追い込まれたときに詠んだ歌です。この「マスキール」という語の意味は、実はいまだにちゃんとはわかっていないのだそうです。英語の聖書では訳によって「masukil」だったり「maschil」だったりします。その意味も「指揮」だとか「黙想」だとか、さまざまな解釈があります。よくわかっていないんです。

ただ、とにかく、その語の意味するものがなんであれ、ダビデは敵に追い詰められた洞窟の中でさえ、神様に祈ったんです。敵に追い詰められた洞窟の中という、誰がどう見てもみじめで、絶対的にピンチな状況で、あえてさらに神様に「私は今、弱く、みじめで、そしてこの命さえ今にも失いそうです」と祈ったんです。

ダビデは自分の生涯の最大のピンチの時に、祈ったんです。

僕たちは、僕は、人生最大のピンチの時に、こんな風に祈れるでしょうか。たとえば経済的に大ピンチで、明日を生きるお金もないまでに追い詰められた時に、僕たちは、僕は、本当に神に祈るでしょうか。たとえばひどい病気になって、明日をも知れぬ命になったときに、僕たちは、僕は、本当に神に祈るでしょうか。

「いやいや、そんなもはや神頼みするしかない状況になったら祈るだろう」って思う人もいるかもしれません。そんな人は多いのかもしれません。でも僕は、僕が本当にそんな状況になった時に、神様に祈るかどうか、確信がないんです。経済的なピンチなら、神様ではなく、お金を貸してくれる人に懇願するかもしれません。健康的なピンチなら、神様ではなく、お医者さんに懇願するかもしれません。

ダビデだって、敵を蹴散らす援軍とか、味方とか、もっと「現実的な」何かに懇願したっておかしくなかったわけです。でもダビデはそんな「現実的な」何かではなく、神に祈りました。

僕は、自分が本当にピンチになった時、神様ではなく、もっと「現実的な」何かに懇願してしまうのではないかと、普段は「神様に信頼しています」とか言いながら、本当にピンチになったら神様以外の「何か」に懇願してしまうのではないかと、自分の信仰をちょっと疑ってみたりするんです。

お祈りします。神様、本当にピンチに陥った時、ダビデのように、まず何よりもあなたに信頼し、あなたに助けを求めることができますように、僕を、僕たちを整えてください。そしてそのときに、あなたが本当に必要な助けを与えてくださることを、心から信じることができますように、僕を、僕たちを、導いてください。御手に委ねて、私たちの主、イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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