「知恵のある人」と「知恵そのもの」は、コップの水と琵琶湖くらい違います【聖書からよもやま話83】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、箴言の9章です。二日連続で箴言です。それではよろしくどうぞ。


◆箴言 9章5〜6節

「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。
浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


なんと、旧約聖書にもイエス・キリストが出てくるのか!まだ生まれていないはずなのにすごい!

・・・と、思った方。そう思うのも無理はありません。僕だって初めてここを読んだ時はそう思いました。しかし、実はこのセリフの主語はイエス様ではなく、「知恵」です。目的語は「浅はかな者、良識のない者」です。「知恵」が「浅はかな者、良識のない者」に向けて、「さぁ、一緒に食べよう」と食事の誘いをしてくれているんです。

・・・とはいえ。これはほとんど、イエス様が言っているのと同義だと思います。たとえばマタイの福音書の26章26節で、イエス様は弟子たちに「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と、パンを分け与えていますし、イエス様は普段から誰かを食事に誘うのが大好きな人ですから。それに、ヨハネの福音書の冒頭では「ことばは神であった」と書いてあり、「ことば」とはもともと「ロゴス」であり、これは「知恵」とも意訳できる語ですから、つまりイエス様は知恵そのものだと言えるのです。

むしろこのシーンで「知恵」が、まるでイエス様のようなことを言い出すのは、聖書の「知恵とはイエス・キリストなのである」という宣言であるように思えます。そもそも「知恵」が主語として行動したり発言したりすることって、なかなかないですよね。「知恵」は「知恵を得る」のような目的語や、「知恵を絞って」のような補語として用いられることの多い語で、「知恵は素晴らしい」のように形容詞の主語として用いられることはあっても、今回のように動詞の主語として用いられることは稀です。

知恵は主体としては存在しない、というのが、なぜか僕たちの「常識」では当たり前になっていますが、聖書は「いやいや、知恵だって主体として行為するし、イエス・キリストはまさにその現れなのであるよ」と言っているんです。

つまりイエス様は「知恵のある人」ではなく、「知恵そのもの」なんです。「知恵のある人」と「知恵そのもの」。これは大きな違いです。どう少なく見積もっても、コップの中の水と琵琶湖くらい違います。コップの水は人一人の、しばらくの間の命を保つことができますが、琵琶湖はその中に無数の生命を宿し、水源として数多の人たちの生活を大昔から保ち、そして本当によっぽどのことがない限り、これからも枯れることはないでしょう。知恵についても同じです。いくら「知恵のある人」でも、その知恵はしばらくの時間といくらかの空間を埋めるだけです。そしてやがていつか風化します。しかし「知恵そのもの」は長く生き続け、それこそ聖書によれば始まりから終わりまで絶えず生き続け、世界中にあまねく広がります。

イエス様を「知恵のある人」として扱ううちは、きっと人は信仰に至ることはないのだと思います。イエス様を「知恵そのもの」と認識し、それに従うこと。そこから信仰は始まるのではないかと思います。

なんだかちょっぴり難しい話になってしまいましたが。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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