正直者が損をしても、正直者はそれ自体に価値があります【聖書からよもやま話80】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の16篇です。それではよろしくどうぞ。


◆詩篇 16篇5節

主は私への割り当て分また盃。
あなたは私の受ける分を堅く保たれます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


正直者がバカを見る世の中と言われています。これは現代に限らず、昔から言われていることなのかもしれません。真面目に、誠実に生きている人が損をして、不真面目に不誠実に生きている人が得をする、そんな世の中は今も昔も変わらないのかもしれません。

たしかに、お金だとか、地位だとか、そんな意味ではある意味、それは正しい言説なのかもしれません。しかし、その言説には一つ、致命的に欠け落ちている視点があります。それは「真面目であること」「誠実であること」それ自体が、すでに価値のある「得」であるということです。

この詩を詠ったダビデも、だからこのように「主は私への割り当て分」と言っているんです。「主に従う」ことで、お金だとか地位だとかの面では確かに「損」をすることもあるかもしれません。しかし「主に従う」ということ自体が、それらに増して、自分にとっては「得」である、とダビデは言っているんです。

「正直者が損をする世の中を変えなくてはいけない!」これは確かに正しいことです。しかし一方で、正直者は「正直であることができる」「正直であり続けられる」という「得」をすでに得てもいるんです。「正直」とか「誠実」は、「富」とか「地位」のためにあるものではありません。

「正直でいれば、お金が手に入る」とか「誠実でいれば地位が手に入る」というような、「○○のための」というものではないんです、本当の徳というものは。それ故に富や価値を得るためのものではないんです。それ自体に価値があるものなんです。

ですから「正直者にお金をよこせ」とか「誠実な人に地位をよこせ」というのは、ちょっとだけ、論点がズレているのではないかと思います。厳しいことを言えば、「正直だからご褒美をよこせ」というのは、本当に正直な態度ではありません。「神様を信じるから何かをください」というのも、本当の信仰ではありません。なんの見返りもなくても、正直に誠実に生きる、このことが大切なんだと思います。正直も誠実も信仰も、それ自体で、山ほどの金貨くらいの価値があるんです。

・・・とはいえ、僕だって正直、お金も欲しいし地位だって欲しい。まだまだダビデさんの心意気にはほど遠いんです。でも少しずつでも、近づきたいなと思います。カサノヴァやネロのような富と地位にも憧れますが、それが最終的には何の意味もなさないことだって知っています。知っているのにそれでもやっぱりそれを求めてしまう、人の罪って奥深いですね。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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