「悪」は「あいつら」のもの?「正義」は「私たち」のもの?【聖書からよもやま話75】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ミカ書の7章です。それではよろしくどうぞ。


◆ミカ書 7篇2節

敬虔な者はこの地から消え失せ、
人々の間に、心の直ぐな者は一人もいない。
みな血を流そうと待ち伏せし、
互いに網をかけ合って捕らえようとする。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


ここでは世の終わりのときに、人々がどれだけ罪深いかが記されています。敬虔な人も、心の正しい人もそこにはいません。これを「自分とは関係ない、遠い未来の話」と読んでしまってはいけません。世の終わりはいつ来るかわからないのですから、これは「自分が生きている今」を指しているのかもしれません。

「どんなに人々の心が悪くなっても、自分だけは最後まで正しくいたいし、正しいはずだ」と心の中で思っている人は少なくないと思います。クリスチャンなら「自分は最後まで敬虔だ」と思っている方も少なくないと思います。しかし、今日の聖句が描いているのを「今」だとするならば、自分が思っている「正しさ」も「敬虔さ」も、神様の前では正しくもなく、敬虔でもないということになります。「自分も含めて、この世に敬虔な者も、心の直ぐな人間もいないのだ」と、僕はこの聖句を読んで、思い知らされます。

「生きづらい世の中になった」とか「人々の心が乱れている」とかよく言われますけれど、それを言う人ってだいたい、「それは自分のせいではない」と思っています。端的に言えば「自分は正しいのに、善良なのに、周りが変わってしまったから困るのだ」と思っています。でも、本当にそうでしょうか。「心の乱れた人々」の中に、自分は勘定に入れなくて良いのでしょうか。

これは恐らく人間の本能みたいなものなのでしょうけれど、人は「悪」をついつい自分の外側のものだと思ってしまいがちです。不敬虔なのも、心が曲がっているのも、血を流そうと待ち伏せしているのも、互いに網をかけ合っているのも、「自分以外の何者か」だと思ってしまいがちです。僕だってそうです。自分が悪だと人に言われれば傷付きますし、まして自分から自分を悪だなんて思いたくありません。自分を悪だと思ってしまったら、アイデンティティが危機を迎えてしまうかもしれません。

でも、もし「自分が悪である」ということでアイデンティティが崩壊してしまうのなら、それは自分のアイデンティティの根拠を「自分の正しさ」に置いていたことの証拠です。「自分の正しさ」は実はとても脆いものですし、幻のようなものです。それをアイデンティティの根拠にするのは、砂の上に家を建てるようなものです。新約聖書ではイエス様が「家は砂の上でなく、岩の上に建てるべきだよ」と教えてくれています。では、僕たちのアイデンティティの根拠とすべき「岩」とはなんでしょう。それは自分の正しさではなく、神の正しさです。

・・・なんか難しい話になってしまいましたけれど、今日の僕が考えていることは、「自分が正しい!」と主張する人は大抵どこか間違っているし、自分で「自分が正しい!」と思うときこそ「本当に正しいか?」と注意すべきだということです。人間は完全に「正しい」ことなんてないんです。ですから自分で自分を「正しい」と思うとき、それは自分の誤りを見落としているだけなのかもしれません。

衆議院選挙が真っ盛りで、政治家さん達や支持者さん達が口々に「私たちこそ正しい!彼らは間違っている!」と叫びあっていますけれど、僕はそれを見るに「危ないなぁ・・・」と思うんです。政治だって完全に正しいことなんてないんです。誰もが間違っているんです。ですから「正しい私に、私たちに、投票してください!」なんて圧力を感じると、僕は「うーーん・・・・」と悩んでしまうんです。

悩ましいこの1票。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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