人はいずれ死ぬからこそ尊いのか、死ななくても尊いのか。【聖書からよもやま話71】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の14章です。それではよろしくどうぞ。


◆サムエル記 14章14節

私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


当たり前ですけれど、ショッキングな言葉ですよね。私たちは必ず死ぬ者である。これは有名な哲学者、ハイデッガーが、「人間は死に向かう存在である」と言ったことと似ています。人は生まれた瞬間から、死ぬことが定められているんです。

コップに入っている水は、飲んだり、地面にまいたりと、人間の支配下にありますが、コップからこぼれてしまった水は、人間の支配から離れます。コップからこぼれた水をまたコップに戻すことはできません。覆水盆に返らず、というやつです。こぼれた水はやがて乾いて消えてなくなります。

同じように、人間の命も、コップからこぼれた水のように、人間の支配下にはありません。水が少しずつ蒸発するように、人の命も時につれて少しずつ最後の刻に近づいてゆきます。その過程を逆回しにすることはできません。人は生まれた瞬間から、自分の支配下にない、失われてゆく時間の中にあるんです。

しかし、ハイデッガーは、だからこそ人間は自分の存在を体感できるのだと言います。人は死に向かう存在であるからこそ、時間を大切にし、つまり「今」を感じることができるのだと。

一方で聖書は、アダムが罪を犯したから、人は死ぬことになったのだと説きます。人はもともと死ぬものとしては作られておらず、罪によって死ぬことになりました。つまり、人の命はもともと神様のコップの中に入っていたのに、罪によってそれがこぼれてしまったんですね。こぼれた水は乾燥して消えるのを待つのみです。場合によっては雑巾に吸い取られたりするケースもあるでしょうけれど、いずれにせよ、最終的には乾燥してなくなるんです。

と、いうことは、ハイデッガーに従うならば、人は罪ゆえに「今」を体感できる、ということになります。むぅ、これはどうなんでしょう。ついつい僕たちは過去の「偉大な哲学者」の言葉を「正しい」と思ってしまいますけれど、哲学者だって僕たちと同じ人間です。彼らの言うことが正しいとは限りません。

人はいずれ死ぬからこそ「今」が尊いのか。いやいや、もともと人は死ぬ存在ではなかったのだから、死ぬことなしにその存在のみで「今」が尊いのか。そんなことを考えてしまいますけれど、こればっかりはどう考えても答えが出ないと思います。だって、これを考える僕自身が、いずれ死ぬ存在でしかないのですから。この答えが分かるとしたら、それは神様によって死ぬことのない命を与えられた時でしかありません。

むぅ、、、、今日はやたら難しい話になってしまいました。こんなコーナーでも時々はこんな日もあります。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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