スパイはコソコソなんてせずに、堂々と動きます。【聖書からよもやま話77】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨブ記の2章です。それではよろしくどうぞ。


◆ヨブ記 2章1節

ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンも彼らの中にやって来て、主の前に立った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


ヨブ記の2章。ここは聖書の中でも最も解釈の難しい箇所の一つです。本当にめちゃくちゃ難しいので、今日、くじびき(と、言ってもエクセルの乱数ですけど)でこの箇所が当たった時は、「この箇所はこっそり飛ばそうかな」と思ったほどです。

どうしてここがそんなに難しいのかと言うと、この箇所は神様と悪魔が会話をして、しかも「取引」とも言えるようなことをしているからです。「神が悪魔と取引をするのか」これは恐ろしく難しい問題です。

そんな難しい問題は僕にはとても扱えないので、そこのあたりの様々な解釈や議論を知りたい方は、図書館にでも行って難しい本を読んでいただくしかないのですが、今日、この箇所を何度も何度も読み返してみましたら、一番最初の句がとても僕の心に引っかかりましたので、その話をしようと思います。

ここに書いてある「神の子ら」というのは、恐らく天使です。少なくとも、神様に従う「神様の部下」とか「神様の仲間」です。その中に、悪魔、すなわちサタンが堂々と並んでいたのだと、この聖句は示しています。これって、よくよく考えると、恐ろしいことですよね。「私はあなたに忠誠を誓います」という人たちの中に、裏切り者がいるということですから。めんどくさい比喩はなしにして、単刀直入に言えば「正義の中にこそ、悪は紛れ込む。しかも堂々と」ということです。
だって、このシーンで悪魔は、「こっそり」と神の子らの中に「潜んだ」わけではないんです。堂々と神様の前に立ち、神様と会話をしているんです。

端的に言うなら「悪は図々しい」ということです。「悪」は「正義」の中に、さも「私も正義の一員です」という顔をして、立つんです。「こっそり」入り混むのではなく、「堂々と」並ぶんです。

僕もそれなりに長く生きて来ましたから、いろんな人のいろんな話を聞いたりもしたのですが、それによれば「スパイの極意は、コソコソしないこと」なんだそうです。下手に隠れたりしても、いずれ見つかりますし、むしろ見つかったときに言い逃れができません。ですから隠れずに、堂々と「私は善良な市民や部下です」という顔をして、堂々と工作対象の前に立つのだそうです。本当に有能なスパイは、「忍者」とか「007」みたいな、ドラマチックな活動はしないんです。そうではなく、日常に紛れ込んで、さも「これが常識だし、あたりまえだし、正義ですよね」という顔をして活動するんです。なんなら、スパイの方々の情報源の大半は、どこかに潜入して得た情報とかではなく、新聞やテレビで報道される情報なのだそうです。黒い服を着て、サングラスをかけて、サイレント機構の着いた銃を持って・・・なんていう、「ものものしい」スパイは現代社会にはいないと言っても良いでしょうし、たぶん過去にもいなかったと思います。だってそんなの、かえって目立ちますもの。

そんな「本物のスパイ」の方々の話はともかく、僕たちの心の中に、そんな「スパイ」はいないでしょうか。「これが常識だし、あたりまえだし、正義ですよね」という顔をして、人の心を悪に導く「スパイ」はいないでしょうか。

「サタン」とか「悪魔」と言うと、もしかしたら「大魔王」みたいな大きくて怖くて強くて「君臨する」存在を想像する方も多いかもしれませんが、そうではないんです。最も恐ろしい悪魔は君臨なんてせずに、当たり前の顔をして「私は常識だし、あたりまえだし、正義ですよ」と寄ってくる「スパイ」なんです。そんな何気ない「スパイ」こそが、悪の総大将「サタン」なんです。

国の「スパイ防止法」には色々賛否もあるでしょうが、自分の心の「スパイ防止法」はしっかりと立ち上げておかなきゃな、と思います。

「疑え」と言っているわけではありません。でも「信じるものを点検する」ことは大切かと思います。「正しい」と思っているそれは本当に正しいのか。「あたりまえ」と思っているそれは本当にあたりまえなのか。そんな隙から「スパイ」は侵入するんです。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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