「わかるよ」「祈っています」「神様のおかげ」も時にはアリ 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

Image by Pete Linforth from Pixabay

 仲の良かった友人が、私がある教会に滞在したことがきっかけでその教会とつながり、昨年クリスマスに洗礼を受けた、という出来事がありました。その人はその場にいませんでしたが、教会のみなさんも喜んでくださいました。そしてあるかたは「腹ぺこさんのおかげだね」とおっしゃいました。しかし、私のおかげではないのです。私は、その地にいることがわかるツイートをしただけで、その地に呼んでくれた私の友人のおかげというべきか、もうさまざまなものの「おかげ」であって、少なくとも「私のおかげ」ではありません。

そこで、つい私が「神様のおかげ」と言ったら、すぐに茶化す人が現れました。そこで私が「『神様のおかげ』という言葉は難しい。いいと思っていたものが悪くなることもあるし」と言うと、ある人は「自分にとって都合のいいことは『神様のおかげ』と言い、自分にとって都合のよくないことは、そうは言わない。おかしいね」とおっしゃいました。私の言いたかったことがうまく伝わりませんでしたので、ここで少し私の言いたかったことを書きたいと思います。

 牧師に私の話を聞いてもらっていた時のことです。言うつもりはなかったのに、私がつい「本当は数学者になれていたはずなのに……」という言葉を口走ってしまったとき、その牧師はすかさず復唱し「自分のほうが優っていたとは言わないものの、自分のほうが劣っていたとも言えない多くの先輩、同輩、後輩が数学者になっている。くやしいでしょうね。わかるよ」とおっしゃってくださったのです。その牧師は、「くやしい」という感情が人間にはあるということをよくご存じだったのです。非常にうれしかったです。でも、「わかるよ」と言われると「お前に何がわかる!」と逆ギレする人もたまにいるそうです。その気持ちは想像できました。それでも「わかるよ」と言い続けるその先生は、ありがたい存在だと思いました。

 若いころに聞いた話です。手紙の末尾に「祈っています」と書いたら、必ずその場で本当に祈っている牧師さんがいたそうです。「私にはその真似はできない」と言っていた別の牧師さんがいたのですが、確かに「祈っています」と書いたからといって、本当に「神様、アーメン」と祈っているとは限りません。でも、その人が励まされるなら「祈っています」と言ってもいいのではないでしょうか。

 2016年、私はまだ中高の数学の教師をしており、その前の年に「第1回ダウン」をして、おっかない教員とペアを組まされて「腹ぺこ更生計画」が行われるなか生きた心地がせず、5月に発達障害の診断がくだり、9月1日から、司書教諭の勉強をさせられることになっていたのです。8月29日から全身のかゆみで眠れず、ついに9月1日の前日に、私はふとんのなかで神様にすべてをぶつけました。私の思い、私の罪。すべてぶつけました。その日、神様は私に深い眠りをくださり、恵みの9月1日をくださいました。

 考えてみるとそれはハッピーエンドの始まりではなく、むしろ新たな苦難の始まりで、その後も私は長い休職と配置換えをたくさん経験して、現在の長い休職にいたります。でも、私はその2016年9月1日の出来事を「神様が私に応えてくださった」「神様のおかげ」と、今でも思っています。神様はたしかにおられるのです。

 というわけで、「わかるよ」も「祈っています」も「神様のおかげ」も言ってよい! 茶化す人がいても気にしなくていい! 本当かウソかわかりませんけど、本当だと信じていいのではないでしょうか。そうでなければ、宗教の意味はないと思いますよ!

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

絶えず神様に甘えましょう 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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