人は本当に「迷惑だけはかけちゃいけない」のか 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

 過日、YouTubeで下別府為治(しもべっぷ・ためはる)さんの言葉を聞きました。下別府さんは「私はみんなに迷惑をかけっぱなしです。今も迷惑をかけっぱなしです。でも、それでいいのではないでしょうかということをみんなに言いたい。わがままやけど」ということをおっしゃっていました。

 私は、幼少のころより母から「人様に迷惑だけはかけちゃいけない」と繰り返し聞かされて育ちました。しかし私は、はなはだしく人に迷惑をかけ続ける人間なのです。これらをかけ合わせると、「自分はダメだ」という「刷り込み」になります。何十年もその刷り込みのもとで生きてきました。これを「重荷」と言います。あるいは、こういうのを私は「洗脳」と呼びます。つまり、「自分はダメだ」と繰り返し強烈に刷り込まれて育ってきたということです。

 イエスさまが「重荷をおろしなさい」とおっしゃった。それはいい話ですけど、ちょっと抽象的です。何をどうおろせばいいのかわからない。これを具体的に言いますと、たとえば私にとっては先述の下別府さんの言葉が「重荷をおろす」具体的な言葉になります。

 もちろん私は、だれにでも際限なく迷惑をかけていいと思っているわけではありません。なるべくなら迷惑はかけないほうがいいですし、なるべく迷惑をかけないように努力しています。しかし私は、どうしようもないほど多大なご迷惑を周囲にかけ続ける人間なのです。ですから、もし私が今でも実家の両親のもとにいて、実家の両親とこの話を分かち合おうものなら、まさに彼らは私が滞在することではなはだしい迷惑をこうむっているので、「お前は際限なく迷惑をかけていいと思っているのか! だからお前はダメなのだ!」という話にしかならないでしょう。

 もう一度、下別府さんの言葉を繰り返しましょう。「私はみんなに迷惑をかけっぱなしです。今も迷惑をかけっぱなしです。でも、それでいいのではないでしょうかということをみんなに言いたい。わがままやけど」。下別府さんがどれほど迷惑な方なのか、私はよく知りません。しかし、この言葉は私の洗脳を解き、私の重荷をおろす言葉です。おそらく下別府さんの長い人生の中から紡ぎ出された言葉でしょう。私は一生かけて、洗脳を解き、重荷をおろし続けなければなりません。こういうことは一人ではわかりません。いろいろな人と出会う中で、少しずつ見えてくるものです。

 ちなみにパウロは「互いに重荷を担いなさい」と書いた直後に、「おのおのが自分の荷を負うことになるのです」と書いています(新約聖書「ガラテヤの信徒への手紙」6章5節)。要するに、重荷をおろすことと重荷を担うことって、そんなに違わないということではないでしょうか。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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