みなさんこんにちは。「アトリエ=グラエカ」と名乗り、古代ギリシャ語で創作活動をしている大学1年生です。
私が担当する本連載「古代ギリシャへの誘い」では、「キリスト教と古代ギリシャ」を主なテーマとしてキリスト教と古代ギリシャ世界の関係性や、聖書の中の古代ギリシャ語、また古代ギリシャ語の勉強法などをお伝えできればと思っています。
今回の記事では、「旧約聖書と古代ギリシャ語」というテーマで、旧約聖書と古代ギリシャ語世界の関係性についてお話ししたいと思います。
旧約聖書が書かれた舞台、つまり現代のパレスチナ・シリア地域では、元々ギリシャ語は用いられておらず、ヘブライ人の母語であるヘブライ語が用いられていました。それと同時に、広域陸上交易ではアラム語が、地中海沿岸では海上貿易に用いられるフェニキア語が「地域共通語(リンガ・フランカ)」としてパレスチナでは使われていました。また旧約聖書の中にも、古代パレスチナでの言語の使用状況を推測できる記述があります。列王記下18章26節によると、アッシリアのラブシャケがエルサレムに立てこもるユダ王国の兵士に対して降伏を要求する際ヘブライ語で呼びかけたところ、ユダ側の高官が「兵士たちに聞こえないようにアラム語で話してほしい」と答えた、とされています。この記述からは、当時(紀元前8世紀後半)のアラム語はレヴァント世界におけるリンガ・フランカではあったものの、一般の階級の人々にはまだ浸透しきっていなかったということが読み取れると思います。
では、ギリシャ語がパレスチナで使われ始めるのはいつでしょうか。
時代が進んで紀元前4世紀後半、マケドニアの王アレクサンドロス大王が東方遠征を行い、10年をかけてマケドニアの領土を西はエーゲ海、東はインダス川にまで拡げます。その結果生じたのがレヴァント地域(東地中海沿岸の地域一帯)を含む王国領土内各地における「ギリシャ化(=ヘレニズム)」です。紀元前3世紀以降になるとギリシャ語が各地の公用語・共通語(=「コイネー」、「共通の」を意味するギリシャ語より)となったことでギリシャ以外の地域でも法律や条約がギリシャ語で発布されたり、商取引がギリシャ語で行われるようになるなど、支配的な立場をコイネーギリシャ語は獲得しました。
ヘレニズムの傾向はユダヤ教徒のコミュニティにおいて顕著に表れていて、例えばエジプトの紀元前3世紀~紀元後3世紀までのユダヤ人コミュニティ(バビロン捕囚以降のイスラエル人、ヘブライ人は特にユダヤ人と呼ばれます)から見つかったアラム語、ヘブライ語の史料は2、3点ほどのみでその他の多くがギリシャ語で書かれていたり、אפִּרְיון(appiryōn, おそらくギリシャ語のφορεῖον, phoreion「イスカゴ」由来)や、 פּרוזבול(prozbul「適用」、ギリシャ語のπροσβολή, prosbolē由来の法律用語)といったギリシャ語からの借用とみられる語が旧約文学や法律用語の文脈で用いられたりしたことは、コイネー(共通)ギリシャ語が当時のユダヤ人社会でどれほど優越していたかを示しています。
しかし、こうした過度な「ギリシャ化」はある問題を引き起こします。「ヘブライ語を理解できるユダヤ人が少なくなってしまった」のです。ヘブライ語は典礼言語としての性格を強めていたために代わりにアラム語の使用頻度が高くなったのに加え、ユダヤ人コミュニティ内でコイネーの存在感が増したことが原因ですが、最も重要な要素は「ユダヤ人ディアスポラ」の存在です。ユダヤ人は紀元前587年のバビロン捕囚以降、北アフリカ、アラビア半島、ペルシア、アナトリア半島(小アジア)、南イタリア(マグナ・グラエキア)といった諸地域に離散(ディアスポラ)しました。
アレクサンドロスの東方遠征以降はコイネー(共通語)が広まりますから、ユダヤ人のディアスポラの間に生まれたユダヤ人も必然的にコイネーで育つことになります。その結果「ヘブライ語を解さないユダヤ人」が少なからず生じました(もっとも、ユダヤ人ディアスポラであってもラビ、つまりユダヤ教の教師や律法学者による高等教育を受ければヘブライ語の知識を得ることはできました。代表的なのはアナトリア半島のタルスス出身で新約聖書の多くを書いたとされる使徒パウロです。ただしこうした高等教育を受けられたのは一部に限られました)。
そこで誕生したのが、『セプトゥアギンタ(七十人訳聖書)』です。『セプトゥアギンタ』は、ヘブライ語で書かれていた旧約聖書をギリシャ語へ翻訳したもので、もともとヘブライ語だった旧約聖書がギリシャ語に翻訳された背景にはギリシャ語話者のユダヤ人の増加といった歴史が関係しています。『セプトゥアギンタ』はユダヤ教の聖典と、旧約聖書が取り扱っている時代以降の歴史を簡潔な文体のギリシャ語で記したもので、のちのキリスト教の発展に多大な影響を残していくことになります。
というわけで、今回の記事では旧約聖書と古代ギリシャ語の関係性を解説してみました。次回は新約聖書と古代ギリシャ語の関係性を見ていきたいと思います。
次回の記事でお会いしましょう。
Χαίρετε,(カイレテ、「それでは」)

