主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、箴言の28章です。よろしくどうぞ。
箴言 28章13節
自分の背きを隠す者は成功しない。
告白して捨てる者はあわれみを受ける。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「背き」というのは罪だとか悪事だとかのことですけれど、それを隠すとロクなことがないよ、ということをこの箴言は教えています。月並みと言えば月並み、当たり前と言えば当たり前な教訓なんですけど、しかしこれを実践するのは何度言われても難しいからこそ、あちこちで何度も言われるのでしょうね。
人間は誰だって「清廉潔白!」なんてことはないんです。あえて断言してしまいますけど、ないんです。清廉潔白に見える人はいます。しかしそんな人でも本当に清廉潔白なわけではありません。そして、そんな「清廉潔白に見える人」、もう少し踏み込めば「清廉潔白に見せている人」こそが、最も危険で、最も成功しない人であるぞと、そういうことをこの箴言は教えてくれています。
多くの政治家の皆さんが「私は清廉潔白ですよー!」と言います。でも実際は違います。多くの芸能人の皆さんも「私は清廉潔白ですよー!」と言います。でも実際は違います。
そして多くの僕たちもまた「私は清廉潔白ですよー!」と言います。でも実際は違います。
政治家さんや芸能人さんが悪いことをすると、現代のネット社会では多くの人が「それは良くないぞー!許されないぞー!」と怒って、言葉の石を投げつけます。まるで自分は清廉潔白であるかのように。自分だってちっとも清廉潔白ではないくせに。
ましてクリスチャンでありながら人に言葉の石を投げつけているなら、イエス・キリストの言った「罪のない者だけが石を投げなさい」という教えに反していますし、もし「私には罪がない」というのなら、この箴言の「背きを隠す者」であるわけですから、どちらにしてもふさわしくないんです。
でも、「人は清廉潔白であるべきだ!」と思っているより、「人は清廉潔白なわけがない!」と思っている方が、人に対して優しくあれるはずです。神様はとことんまで「君たちが清廉潔白でないことは知っているよ」と言ってくださる方ですから、ある意味では怖いですが、またある意味ではとことんまで優しいわけです。
僕はこのコラムや本で、僕の背きをちょこちょこ告白していますけれど、それでもまだまだ告白できないような罪を抱えています。その罪については僕もまた「背きを隠す者」なんです。だから単純に「自分を清廉潔白に見せる人っていやだよねー」なんて言えません。自分もまた、そうなんですから。だからまだ成功もせずに、日々ギリギリで生きているのかもしれません。でもどうなんでしょうね、いわゆる「成功している人」ってすべての罪を隠さずに生きているんですかね。そんなことはなさそうですよね。そもそも、この箴言で言われている「成功」って、世でいう「成功」とはまったく違うものなんでしょうね。きっと世の成功はむしろ「背きを隠す者」の方がうまくいくかもしれませんね。でもそれを追い求めるのは「価値観のコペルニクス的転回」を経ているクリスチャンの生き方ではないはずです。
一番難しいのはもしかしたら「背きを隠す者」であることを隠さないことなのかもしれません。人間は、隠していることを隠す生き物です。「何も隠してなんていませんよー」という顔をして、いろんなものを隠しているものです。手品師と同じかもしれません。「タネも仕掛けもありません」と言いながら、タネも仕掛けもあるんです。
背きを隠していることを隠していることを隠していることを隠して・・・
人の背きは堂々巡りでキリがない。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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