どんなに怒っても絶交だけはしない優しさ【聖書からよもやま話218】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。出張でしばらくお休みをいただいておりました。すみません。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、    エレミヤ書の46章です。それではよろしくどうぞ。

◆エレミヤ書 46章28節

しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様はイスラエルの民のうち、他の神々に頼った人たちに怒り「罰せずにおくことはない」と言っています。しかし同時に「滅ぼし尽くすことはない」とも言っています。厳しくもあり、しかし優しくもあります。罪を犯してしまう僕たちに神様は怒り罰しますが、「でも、とことんまではやらないよ」と言ってくださいます。それはどこまでも、神様の愛が僕たちの上に注いでいるということでもあります。

大きな失敗をした時、僕たちは「もう終わりだ」なんて思ったりします。時には大きな失敗をした人に対して「君はもう終わりだよ」なんて言うこともあるかもしれません。直接的にそんなことは思わなくても、たとえば「あの人と関わるのはもう終わりにしよう」なんてことは思うかもしれません。僕たちは、僕たちに対して失敗や失態を犯した人に対して「関係を切る」ということをしてしまいます。しかし、神様はそうではないんですね。その失敗や失態に対して怒りもしますし罰も与えますけど、それで「君はもう終わりだ」とか「君とはもう関わらないことにするよ」なんてことは言わずに、ずっと関係を持ち続けてくれるんです。

新約聖書には「希望は最後まで残る」と書いてあります。希望の対義語は「絶望」で、それは「望みが絶たれる」ということです。望みや関係が絶たれる時、人は絶望に陥りますが、神様はそれを絶つことがありません。必ず再出発、再起の道を開けておいてくださいます。

僕は過去にある人に対してすごく怒って「二度と僕の前に顔を見せるな!」と言い、そのまま完全に関係を絶ってしまったことがあります。我ながらこれは神様の愛とは正反対の態度であったと反省せざるを得ません。人から怒りや悲しみをもたらされた時、僕たちはその人との関係を完全に断ちたくなってしまいます。その人に対して心を閉ざしたくなってしまいます。しかし神様はどれほど怒ったとしても、僕たちとの関係を完全に絶つことはありませんし、心を閉ざすこともなさらないんです。自分の後悔と対比して、改めて神様の愛の深さを思わされます。

神様は怒る時も、僕たちの手をつかんだままで怒ってくださるような方なのかと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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