子が母に求めるものは乳から愛に変わります。【聖書からよもやま話212】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   詩篇の131篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 131篇2節

乳離れした子が
母親とともにいるように
乳離れした子のように
私のたましいは私とともにあります。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

乳離れした子は、母親なしにでも生きることができます。乳を求めて激しく泣き叫ばなくても生きることができます。しかし、それでも母親のそばに居続けるというのは、母親を愛しているからですし、母親のそばが安心できる場所だからです。子どもが本当に母親の腕の中で安心するのは、乳離れした後なのかと思います。

乳離れ前の子は「乳=食=必要なもの」を求めて母親を求めますが、乳離れ後の子はそれらのために母親を求めるよりも、母親の愛情を求めます。「必要を満たしたい」から「関係を深めたい、保ちたい」に望みがだんだんシフトします。神様と人間の関係も同じです。神様に「必要なもの」を求めることから、神様との「関係」を求める者へと、クリスチャンは変わってゆきます。そのシフトには「必要なものは与えられる」という信頼が大前提です。
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僕たちは神様の腕の中で、「あれがほしいこれがほしい」と激しく泣き叫ぶことなく、安らかに過ごして良いんです。これまでも必要は満たされてきたし、これからも満たされます。乳離れする子だって、それまで必要な時に乳が与えられていたからこそ、「これからも必要は満たされるのだ」と安心して乳離れすることができます。その安心がなければ乳離れすることはできません。まだ幼い子どもが、母親の腕の中でさえ泣き叫ぶのは、まだ「必要は与えられる」という確信がないからです。神様の腕の中で僕たちが泣き叫ぶのはも、「必要は与えられる」という確信がないからです。その確信を得る時、僕たちは本当に穏やかに神様の腕の中で眠れます。

人は大きなことや立派なことをしたがりますし、高い地位に立ちたがります。放っておけばその欲求はどこまでも高くなり、故にいつまでも「満たされない、満たされない」と泣き叫び続けます。神様の腕の中にいるのに、少しも安らぐことがないんです。

必要はこれまでも満たされてきたし、これからも満たされます。それを信じれば、もはや何かを求めて泣き叫ぶことはないんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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