【発達障害クリスチャンのつぶやき】 結婚して逃れられた「毒親」からの洗脳

結婚して15年以上がたち、だいぶ両親の「洗脳」から解かれてきました。そのなかでも特に大きかったのは、「最後にはゆるされるという安心感」が得られたことだと思います。妻にもひんぱんに怒られます。しかし、甘いのか何なのか、最後には必ずゆるされるのです。それを15年、経験してきました。

思えば、両親のもとでは、「ゆるされない」経験ばかりして育ちました。小学生のころから、「整理整頓のできない人間は失格だ」という全否定のなかで生きてきました。もちろん、小学1年生が「人間失格」だの「全否定」だのという言葉を知っているはずはありません。この表現は、いまの私から6歳ごろの自分、40年前の自分を思い出して書いているという状態です。あえて言葉にするとそうなる、ということです。

それが、30歳で結婚してから「なんだかんだ言って最後にはすべてゆるされる」という経験をするようになりました。これは、それまで味わったことのない経験でした。子どもは、はじめからその状態で育ってきています。甘いのかもしれません。しかし、私はだんだん気づいてきました。これが「親の愛」というものだと。

愛することはゆるすことなのです。なにがあってもゆるされるという安心感。そのなかで育った人こそ、(決して「甘やかされて育った」のではなく)きちんと自立できる人なのでしょう。

消しゴムをなくすことはよくない。しかし、そのことで我が子を裁いて、消しゴムをなくしたら失格であるかのように刷り込むのはもっとよくない。確かに消しゴムをなくすことはよくないことだけれど、子どもの繊細な心はお金では買えないものですから(消しゴムは買えるけど)。

「取り返しのつかない失敗なんてない」という「安心感」のなかを生きられる子どもは幸せです。お金の問題ではありません。しかし、どれほど世間で「失敗はゆるされない」という言葉を聞くことでしょうか。ゆるされない失敗なんて、この世にないのに。

失敗は失敗です。あやまちはあやまちです。よくありません。しかし、だれしも失敗をすること、だれしもあやまちを犯すということ、そして、それらはゆるされなければ私たちは生きていけないことを思い出し、私も人をゆるして生きるということ。そのことを、この15年、理屈ではなく、教会のお説教でもなく、議論でもなく、実感として味わってきたことによって、ようやく私は洗脳から解かれつつあります。

幼少のころの心の傷が癒えることはないでしょう。でも私は、「最後にはゆるされる」ということを肌で学びました。これは単なる「厳しい」「甘い」の問題ではありません。ゆるされて、ゆるして、生きていきましょう。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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