不倫の言い訳の王道「寂しかったから」は神様にも通用しない【聖書からよもやま話214】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   エゼキエル書の8章です。それではよろしくどうぞ。

◆エゼキエル書 8章12節

彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イスラエルの長老たちは「私たちは神様に見捨てられたのだ、だから仕方ないのだ」と他の神々を崇めるようになりました。

不倫の言い訳でよく聞くものに「パートナーが愛してくれなかったから寂しくて他の人に愛を求めてしまった」というのがありますが、大抵の場合、それは勝手な言い訳です。自分が単に他の異性、あるいは快楽の誘惑に負けただけなのに、後付けで「家庭で愛や温もりを感じられなかったんだから仕方なかった!」と言い訳を作り上げるんです。

イスラエルの長老たちも同じなのかもしれません。自分たちがただ他の神々の誘惑に負けただけなのに、「私たちの神が私たちを見捨てたんだから仕方ないんです」と後付けの言い訳をしたのではないでしょうか。

現代社会では「神なんていないんだから、自分の好きなことをして好きなように生きよう」という人が多くなっています。でもこれも、もしかしたら「自分の好きなように生きたい」という欲求が先にあって、それを正当化するために「だって神様はいないんだから仕方ない」という言い訳を作っているケースもあるのではないでしょうか。「神はいないんだから好きに生きよう」というのは、現代特有の考え方ではありません。2500年も昔から、このような考え方で人々が「自分の好きなように」生きようとしたことも、ちゃんと聖書に記されています。
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家庭で愛や温もりを感じられないなら、不倫に走る前に家庭に対して「もっと愛が欲しいです!温もりが欲しいです!」と訴えたって良いんです。神様の愛を感じられないなら「だから神様なんていない」と言う前に神様に対して「もっと愛が欲しいです!」と訴えれば良いんです。それもせずに「だって寂しかったから仕方ない」なんてもったいない話です。

そう訴えた時、もしかしたら家族から「あなたのこういうところが気になって、以前のように仲良くできない」とか指摘されることもあるかもしれません。謙虚にそれを受け止めて、自分を改めることも必要かもしれません。神様に訴えた時はやっぱり神様から「君のこういうところ、よくないよ」と指摘されることもあるかもしれません。それなら、それを謙虚に受け止めて、自分を改めることが必要です。そういう指摘は家族からであれ、神様からであれ、耳が痛いことかもしれませんが、その指摘自体もまた愛です。それを受け止めることを避けて、何の指摘もせずに甘やかしてくれる愛人や他の神々に心を向けるのでは、いつまでたっても求める愛を得ることはできないのだと思います。

僕も仕事でお寺のお坊さんに会うと、「お坊さんはうちの牧師より優しくて良いなぁ」なんて正直一瞬思うことがあります。でも、そのお坊さんが僕に優しいのはあくまで僕が「お客さん」であるからです。牧師は僕に耳の痛いことも言いますが、それ僕が牧師にとって「家族」であり、つまり当事者だからです。どちらが僕を愛してくれているかは明白なことです。そこで僕が「教会に愛を感じられないからお寺に改宗しました」なんてことをするのは、「家で愛を感じられないから不倫しました」というのと同じようなことなんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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