そのデマで、その嘘で、誰が幸せになりますか。【聖書からよもやま話204】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   詩篇の120篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 120篇3節

欺きの舌よ
おまえに何が与えられ
おまえに何が加えられるだろうか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イスラエルの人たちは他国から発せられるデマや嘘に苦しめられていました。デマは、敵対する人を一時的に苦しめるためには一定の効果があるかもしれません。しかしどうでしょう、そのデマを発する人は何を得るでしょうか。何も得はしません。デマというのは相手は一時的に不幸になるけれど、自分も空しくなるという、誰も得をしない行為に過ぎません。

嘘をついてまで敵対する相手を貶めようとする人は世の中にたくさんいます。その人たちはしかし、誰も幸せにはなりません。嘘はいつか明るみになり、その時、それを発した人は信用も権威も失います。

現代はありとあらゆる嘘が幾千も幾万も飛び交う時代です。しかし、誰かが嘘をついているということは、自分が嘘をついて良いという理由にはなりません。嘘にまみれた世界に対して嘘で対抗するのでは、誰も幸せにならない無限の最低スパイラルが生じるだけです。
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子どもの頃から、僕は母に「嘘だけはつくな」と言い聞かせられたものです。そのおかげで今の僕は嘘をつくことからすっかり離れた生活を送っています・・・・なんて言えたら良いのですけれど、実際のところ、はい、正直に申し上げまして、やっぱり時々嘘をついてしまいます。人生で嘘をついた数なんて、なかなか他人と比べられるものではないですけれど、僕が今までの人生の中でついてきた嘘は数えてみればそれなりのものですから、もしかしたら人よりも嘘に満ちた人生を送ってきたとさえ言えるかもしれません。

でもそうやって、嘘をたくさん重ねてきたからこそ、嘘、すなわち「欺きの舌」が結果的に僕に何も良いものをもたらさなかったな、と実感することができています。しかしそれと分かっていても、やっぱり時々細かい嘘をついてしまう、自らの罪の深さを思い知るところです。

やや極端な話ですが、僕はいわゆるサプライズをされるのが嫌いです。ですからもちろん、それを仕掛けることもありません。なぜならサプライズを仕掛けるためにはいくらかの嘘が必要になることがほとんどだからです。僕は、僕を喜ばせるためになされたサプライズでも、その「喜ばせよう」という気持ちよりも、「そのために嘘をつかれた、騙された」という悲しい気持ちの方が大きくなってしまうんです。ですから、たとえそれは人を喜ばせるためであっても、嘘はやめておいた方がいいと思っています。

・・・とかなんとか言いながら、もっとくだらない動機の嘘を時についてしまう僕自身なのではありますが。どうかこの嘘の罪から僕を解放してくださいと、神様に祈るしかありません。

アダムはあの禁断の実を食べてしまった時、すなわち人類の最初の罪は、「それを食べても死にません」という悪魔の嘘から生み出されました。嘘が罪を生み出す、ということはしっかり心に留めておかなくてはいけないと思います。

自戒をこめて、・・・・というより、自戒ばっかりです今回。はい、すみません。

それではまた来週。

主にありて。
MAROでした。

【今日の小ネタ】
今日のコラムで僕は「僕は嘘をつきます」と証言しているわけですが、これは有名なパラドックスの一つだとも言えます。「嘘をつきます」という文が本当に嘘ならば「僕は嘘をつきません」という結論になりますし、本当ならば「この文自体が嘘である」という結論になるからです。堂々巡り、難しい・・・。

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