「嫌なものは嫌なんだ!」だけでは民主主義は成り立ちません。【聖書からよもやま話201】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、   ピリピ人への手紙の2章です。それではよろしくどうぞ。

◆ピリピ人への手紙 2章3節

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

民主主義ってとことん難しいものだなーと思わされます。今日の箇所って、民主主義が正常に機能するために必要不可欠なことだと思うんです。しかしこれをちゃんと実行するのはすごく難しいです。

「利己的な思いや虚栄で動いてはいけない」と言えば、そうだそうだと同意してくれる方は多いと思います。「政治家は利己的な動機で動いてばかりでけしからん!」と。しかし民主主義において利己的な動機で動いてはいけないのは政治家だけでなく一人一人の有権者も同じです。そしてつい有権者は「この法律は自分に有利だから賛成、この法律は自分に不利だから反対」という判断をしてしまいがちです。民主主義が真に機能するためには一人一人の有権者が「これは自分には不利になるけども、国とか町にとっては良いことだから賛成」とか「これは自分にとってはありがたい法律だけど、これで困る人の方が多いだろうから断腸の思いで反対」と、自分の損得とは無関係に、つまり「利己的な思い」抜きに判断をしなければいけません。「嫌なものは嫌だし、好きなものは好きなんだ!」というのは個人レベルの判断では必ずしも悪くないですが、民主主義を機能させるためには困ったところもあるんです。

もちろんこれは僕にだって難しいです。支払う税金が増えることには反対したくなりますし、僕のもらえるお金が増えるような法改正には賛成したくなります。人間ってそういうものです。自分が嬉しいことは実現したいし、嬉しくないことは回避したい。当たり前と言えば当たり前の感覚です。でもだからこそ、「それではいけないぜ、少なくともそれだけではいけないぜ」と聖書は2000年にもわたって教え続けているんです。
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そしてもう一つ、民主主義のために必要なのは常に相手をリスペクトすることです。たとえば政治の批判をする時、まるで自分がその批判対象よりも明らかに優れている者であるかのように語る人は少なくありません。「あいつはバカだ。あいつはダメだ。そもそも人格ができていない」と。サッカーとか野球の選手を批判する時なんかもそうなりがちです。「あそこでどうしてこういうプレーができないんだ!俺だったらこうしたのに!」とか。でもたとえばサッカーの日本代表なら日本で一番サッカーの上手い11人がプレーしているわけです。だからサッカー選手の批判をするときでも「自分よりサッカーの上手い人である」という尊敬をもって意見を言うべきですし、政治家の批判をする時も「この人は少なくとも一定の有権者の支持を得て、議員に選ばれた人なのである」という尊敬をもって意見を言わなくてはいけないと思います。

人間って、ついつい自分が相手よりも優れている点を探してしまうものです。自分が優れた存在であると思いたい、というのは人間の本能なのかもしれません。そして言い換えればそれは根源的で避けるのが難しい罪なのかもしれません。だからこそ、聖書は2000年以上にもわたって「周りの人はみんな自分より優れていると思って接しなさい」と教え続けているんです。

もちろん、だからといって「自分は何をやってもダメなんです」と自己卑下しろということではありません。むしろ相手を自分より優れていると思うことで、相手からたくさんのものを吸収して、より優れた自分になることができるんです。それに「互いに」そうしろ、ということですから、自分が相手を尊敬するだけでなく、相手も自分を尊敬してくれます。互いに尊敬し合う関係の中に自分の尊厳を見出すことが、健全な自己肯定と根拠のない自惚れの違いなのかと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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