きっと誰かがやるけれど、あえて私がやるのです。【聖書からよもやま話196】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   エステル記の4章です。それではよろしくどうぞ。

◆エステル記 4章14節

もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ユダヤ人たちはこの時、ペルシャ王クセルクセスの命令によって大虐殺をされようとしていました。まさに国の危機、民族の危機でした。

自分が属している国や集団がピンチに陥った時、自分が助けなくても誰かが助けてくれるだろう。そんな風に思ってしまうことって多々あります。そして本当に、自分が助けなくても誰かが助けてくれることが多いものです。だからわざわざ自分がリスクを犯して助ける必要なんてないのかもしれません

でも、そんな風にリスクを避ける時、「あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう」と聖書は言います。そしてあなたが今その場にいるのは「このような時のためかもしれない」と励まします。国や集団のピンチに際して、「こんなことをすべきだ」とか「こんな人が必要だ」とか様々な意見を述べる「評論家」はたくさん現れます。しかし自分でリスクをとって行動を起こす「実践者」は少ないものです。エステルは自分の命のリスクを負って、ユダヤ民族のために行動を起こしました。
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今、キリスト教界も危機にあります。世界規模で見てもそうですし、日本国内ならなおさらです。しかしやっぱり同じように、たくさん現れるのは「評論家」であって、自分でリスクをとる「実践者」は少ないんです。神様は、「他の誰かを求めるのではなく、君が、君自身がリスクをとって行動しなさい」と励ましています。そして「そのために君はそこに置かれているのかもしれないぞ」と。自分がやらなくても、他の誰かがやってくれるかもしれません。でもその時、全体は救われても、あなた自身は滅びるぞと、そんな恐ろしいことも言っています。

国とか集団とか大きなものじゃなくて、もっと個人的なことでもそうです。目の前に困っている人がいる時、自分がリスクを犯して助けなくても、誰かがその人を助けてくれるかもしれません。でもそこであえて自分がリスクをとって助けるということ、そのことが求められているように思います。

「みんなで」ならできる、という方もいるかもしれません。でも聖書が求めているのは「みんなの」決断ではなく、「あなたの」決断です。一人一人の決断が集まれば「みんな」も自然に生じますが、最初から「みんなの」決断であってはいけません。それもやっぱり一種の「みんないるから誰かがやるだろう」だからです。「みんな」という集団で動くとしても、それが真に動くためにはあくまで個人的な「私がやるのだ」という決断が必要なんです。

私がやらずに誰がやる?
きっと誰かがやるでしょう。
でもだからこそ、私がやらねばならぬのです。
一人一人の私がやらねばならぬのです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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