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お金や能力よりも価値のあるもの【聖書からよもやま話251】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、使徒の働きの3章です。それではよろしくどうぞ。

◆使徒の働き 3章6節

金銀はわたしにはない。しかし、私にあるものをあげよう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

足の不自由な人が、ペテロとパウロをに施しをもらおうと近寄ってきましたが、ペテロは「私にもお金はない!」と断言しました。きっとその足の不自由な人は一瞬がっかりしたことでしょう。しかしペテロはこう続けました。「しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、その人の手をとって立ち上がらせると、なんとその人の足はすっかり強くなって立ち上がれたどころか、歩いたり、なんなら飛んだり跳ねたりまでできるようになりました。

ペテロはお金はあげられない代わりに、神様の癒しと救いをその人に与えたのでした。
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誰かが助けを求めている時、僕たちはつい「お金がないから」とか「力がないから」と諦めてしまいがちです。それはもしかしたら心のどこかで「やらない理由」を探してしまっているのかもしれません。しかし大切なことはこのペテロのように「しかし、私にあるものをあげよう」という姿勢なのだと思います。

「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか!?」というシチュエーションで、自分が医師でなければ「あぁ自分には何もできない」と思ってしまうかもしれません。でも医師を探すのを手伝ったり、水を持ってきたりはできるかもしれません。声をかけて励ますこともできるかもしれません。

そして何より、僕たちは祈ることができます。僕たちはよく「祈ること『しか』できない」なんて言ってしまいがちです。それは心のどこかで祈りを「小さなこと、ささやかなこと」と思ってしまっているからではないでしょうか。祈りは、お金にも能力にも負けない力を持っています。お金も能力も、不可能を可能にすることはできませんが、祈りは不可能を可能にできる力です。それは決して『しか』ではないんです、小さくもなければささやかでもないんです。

助けを求める人がいる時、その人を助けるに十分なお金や能力のあるなしにかかわらず、まずその人のために祈りたいと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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