神様の日光浴【聖書からよもやま話248】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、歴代誌第二の15章です。それではよろしくどうぞ。

◆歴代誌第二 15章2節

あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

クリスチャンには「神様が自分から離れてしまっている」と感じてしまうことがあります。ある程度長く信仰生活を送っている方なら、ほとんどすべての人がそんな感覚に陥ったことがあるかと思います。しかし聖書は「あなたが神様と一緒にいるとき、神様はあなたと一緒にいる」と言っています。

神様を遠くに感じるとき、遠ざかっているのは神様の方ではなく、自分の方です。神様を遠くに感じるとき、神様に「どうして遠ざかるのですか!」と嘆きの祈りをする前に、自分自身を見返して、自分が神様とともにいるかどうかをチェックしなくてはいけません。

太陽は遠ざかりも近づきもしません。僕たちが陽の光を浴びられないとき、その原因は太陽ではなく、僕たちの側にあります。たとえば室内にいたり、日陰に入っていたりするかもしれません。自分が室内にこもっているのに「太陽が僕を照らしてくれない!」なんて言うのはおかしいですよね。陽の光を浴びたいなら、自分が外に出なくてはいけません。

でももしかしたら、外に出ても空が曇っていて陽の光を浴びられないかもしれません。それは僕たちの「罪」という雲が、太陽と僕たちの間をさえぎってしまっているということです。そんな時は神様に「どうかこの罪の雲を払ってください」と祈る必要があります。しかしそんな時でも、その「日光不足」の原因は雲たる罪であって、太陽たる神様ではありません。

たとえば実家の両親に、自分から連絡してないのに「最近、両親が連絡をくれない。冷たい」なんて思ってしまうのと同じです。いつだって連絡すれば両親はいつだって両親であるんです。神様も同じです。自分から神様に近づいてゆけば、神様はいつだって「愛しているよ」と僕たちを迎え入れてくれます。僕たちにはもっと、神様の日光浴が必要です。自分からどんどん浴びにいきたいと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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