降伏こそが幸福への道【聖書からよもやま話626】
主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エゼキエル書の35章です。よろしくどうぞ。
エゼキエル書 35章9節
わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。お前の町々には住む者がいなくなる。そのときおまえたちは、私が主であることを知る。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
クリスチャンが「私はクリスチャンです。神様、あなたに従います」と心の底から思うとき、それはもちろん神から豊かな恵みを与えられたときでもあるかもしれませんが、おそらくそれ以上に神に対して徹底的に敗北し、自分の無力さを思い知らされたときなのではないかと思います。
多くのクリスチャン、否、ほぼすべてのクリスチャンが、こういった「敗北」の経験を持っています。クリスチャンになるということは、バラ色の道を進むことではなく、神に対する「敗北」の連続の道を歩むことです。洗礼を受けるというのは言い換えるなら「神に対する降伏宣言」なんです。しかしその道を進めばその先にあるのは「幸福宣言」です。神に対する降伏なしに、真の幸福は訪れません。
日本でも昔から「苦しい時の神だのみ」なんて言って、苦しい時にだけ神仏に都合よくすがろうとする人を揶揄したりしますが、そもそも人間というのは誰もが放っておいたら苦しい時にしか祈りなんてしないものです。苦しいときに祈るのは誰でもすること、だからこそ苦しくないときに祈ることに価値があるんです。そしてそれがどれほど難しいか、多くのクリスチャンがよく知っていることと思います。
故に、神が与える苦難というのは「祈りの機会」でもあります。それは俗的にはピンチかもしれませんが、聖的にはチャンスなんです。クリスチャンも人生において驕り高ぶって神に祈ることを忘れてしまう、神をないがしろにしてしまう時期があります。そんなときに神様の懐に戻るきっかけはいつだって「勝利」ではなく「敗北」です。人は敗北を通してしか、神に立ち戻ることができないんです。
そうであるなら、僕たちがときどき遭遇する苦難は、嘆くべきものであるばかりではありません。それは神が「戻ってきなや」と差し伸べた手であるかもしれません。苦難でもなけりゃ、人は神に目を向けたりしない愚かな存在なんです。そう思えば、苦難や敗北こそが神様からの何よりの恵みなのかもしれません。
エゼキエル書に記されているこの「セイルの山」の人たちが、この「敗北」によって神様に立ち戻ったのかはわかりません。戻らずに滅びたかもしれません。現代の僕たちがここから読み取るべきは、僕たちの心の中にもこの「セイルの山」があり、「敗北」のときにこそ、神に立ち戻るか否かを問われているということです。旧約時代の「セイルの山」は滅びたかもしれません。しかしイエス・キリストが与えてくださった新約=新しい契約に生きる僕たちには「敗北」の上に神様から差し伸べられた手を掴む選択肢を常に与えられています。そこで神に降伏して真の幸福への道を進むか、降伏を拒否して幸福を取り逃がすか。神からの苦難はその分水嶺なんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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