【断片から見た世界】『告白』を読む エピクロス派の哲学をめぐって

「善悪の究極について論じ合う」:エピクロス派の哲学をめぐって

苦悶のうちで続けられたアウグスティヌスと友人たちの議論は、エピクロス派の哲学にまで及ぶこともあったようです。

「肉の快楽の深淵からわたしを呼びもどしたのは、死とやがてくだされるあなたの審判との恐怖のみであった。わたしの考えはいろいろかわったが、この恐怖はけっしてわたしの胸から離れることはなかった。わたしは、友人アリピウスやネブリディウスとともに、善悪の究極について論じ合ったが、わたしはエピクロスの教えに反して、魂が死後も存続して、生前の行為の応報を受けるということを信じないかぎり、エピクロスこそ勝利の棕櫚を受けるべきであると考えた……。」

悩めるアウグスティヌスは、ほんの一時の間にもせよ、なぜエピクロスこそが勝利者であると思ったのでしょうか。今回の記事では前回に引き続き、彼らの間に交わされた会話を再構成するという形でこの問題に迫ってみることにします。

アウグスティヌス、再び語る

論点:
もしも私たち人間が死ぬことがないならば、肉体の快楽を永遠に味わい続けるような生こそが幸福なのではあるまいか?

いやもう、これってほんとに言っても仕方ないみたいな話ではあるんだけど、でも僕としては考えずにはいられないのだ。アリピウス、動かすことのできない現実からはとりあえず離れて、僕たち人間が歳もとらずに、死ぬこともないとしてみてくれ。それってもう、人生文字通りバラ色でしかないのではあるまいか?

「まあ、確かに……。」

おいしいものを食べて、音楽でも聴いて旅行もして、たまには恋でもしたりしてさ、永遠に楽しいことだけして過ごすわけだよ。エピクロスは、永久につまんないことばっかりやってる人間社会からはきれいさっぱりおさらばして、哲学の道を歩みつつ、喜びを求めながら生きよって言ってる(「隠れて、生きよ」)。めちゃくちゃ無責任な気もするけど、正直、共感する部分もないではない。社会ってなんでこんなに生きにくいんだよ、ちくしょう。アリピウス、君はなんでそんなに立派に生きてけてるんだ?

「いや、僕だって、社会って生きにくいなあとは普段から思ってますけどね……。」

哲学の議論っていうよりも、完全に愚痴になっててごめん。でもさ、僕は特に最近、「生きてくのもう無理」みたいな気分になることがよくある。不可能なのはわかってるけど、楽しいことだけして、楽しいことだけ考えて生きていたいよ。痛いとか苦しいとか「重荷」とか、本当は嫌なんだ。アリピウス、いきなりこんなこと聞かれても困るだろうけど、人生って、なんでこんなに辛いこととか苦しいことであふれてるんだ?ごめん、答えなんてないってことは、分かってるつもりなんだが……。

「……。」

 

 

「哲学する僕と君とは、一体何のために……。」

論点:
しかしながら、人間はいかなる生を送るにもせよ、最後には必ず死ぬのである。

いやこれ、できれば本当に考えたくないよ。考えたくないけど、「生きることの真実」みたいなものを追い求める時には、どうしてもこのことを考えざるをえない。というか、できるなら、楽しいことだけしながら「人生最高!」みたいな生き方をしてみたいものだが、哲学気質という宿命的な心の傾向を持って生まれてきてしまって、おまけに心配性だったり不安気質だったりもする人間の場合には、どうしてもこういうことを考えずにはいられないのである。

アンブロシウス先生の言うことが、最近ではますます身にしみてくるようになってきてる。心を尽くして神を愛して、隣人を自分自身のように愛するんだよ。それで、自分だけが楽しいことしたいとか、ああ、僕の健康はどうなってしまうんだちくしょうとかみたいなことを延々と考え続けるのをやめて、誰かに何かを与えられるような人間になるんだ。モテたいとか、人気者になりたいとかそういうことよりもずっと大切なことがあって、生きることの痛みとか苦しみとかそういうことを、語るべき時にきちんと語れる人間になりたいんだよ。ただ同時に、すぐに健康の不安とか、元の生き方とかがあっという間に戻ってきて、僕に向かって「お前はもうすぐ死ぬんだ」ってささやき続けるんだな。変わらなきゃいけない。どう変わればいいのかは分からないけど、とにかく変わらなきゃいけないっていうことだけは分かってるんだ。

アリピウス、僕は最近、哲学とか学問の道っていうのは、どうにも呪われてるとしか言いようのないものなのではないかっていう気もしはじめている。哲学っていうのは人間の真実な生き方を力の限り探求して、それで、できるならばそういう人間を目指して進んでゆくべき営みのはずだ。それなのに、僕たちは根本から生まれ変わって「新しい人間」として生き始める代わりに、こうしていつまでも理屈をこねくり回してしゃべり散らかしながら、人生の限りある時間を浪費し続けている。世の中には、学問をしていなくても、自分以外の人のために尽くして生きている人たちもいる。その一方で、哲学する僕たちは「何が正しい生き方か?」とか、「あの哲学者のあの本読んだ?」とか、「あれってやっぱり読んでおかないと駄目なのかな」とか言いながら、実際には何もせずに暮らしているのだ。いや、そういうことにも意味があるはずだと思ってるから僕もこうして哲学を続けてるわけなんだが、こればっかりはどうにも……。

 

おわりに

「彼らは、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」と信仰の書は語っていますが、哲学する人間の生き方が果たしてそれだけで終わってしまうものであるのかどうかはまさしく、それぞれの人が掴みとる実存の選択にかかっていると言えるのかもしれません。私たちとしては、これでアウグスティヌスとアリピウスの議論にはとりあえず一区切りをつけることにして、『告白』の道行きを引き続きたどってゆくことにしたいと思います。

 

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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