【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスと『アエネイス』

フィクションに没頭することは善なのか、それとも、悪なのか?:アウグスティヌスと『アエネイス』との関係を通して考える

虚構の物語に夢中になることは人間にとって、善いことなのでしょうか、それとも、悪いことなのでしょうか?いささか唐突な問いではありますが、今回は『告白』におけるアウグスティヌスの回想を通して、この問いについて検討してみることにしたいと思います。

「さて、まだほんの子供であったとき教えこまれたギリシア語をわたしはどういうわけで嫌ったか、この理由はいまもなおわからない。わたしはラテン語を、それも初級の教師たちが教えるものではなく、文法家と呼ばれる教師が教えてくれるものを大変好んでいたからである。[…]ところが、あの文学を教える学科によってわたしはアエネアスとかいう者の漂流物語を暗記し、わたし自身の漂流を忘れ……。」

「アエネアスとかいう者の漂流物語」とは、現代に至るまで読まれ続けている文学作品『アエネイス』のことを指しています。今回は、アウグスティヌスとこの作品との関わりを通して、上の問いについて考えてみることにしましょう。

「わたしは歌う、戦いと、そしてひとりの英雄を」:ウェルギリウスの『アエネイス』とは?

少年時代のアウグスティヌスが愛好した『アエネイス』は、彼が生きていた古代ローマの世界を代表する詩人であるウェルギリウスが書き上げた、当時は知らない人はいないという位に有名な一大叙事詩にほかなりませんでした。

「わたしは歌う、戦いと、そしてひとりの英雄を。」この一文から始まる『アエネイス』は、トロイアの英雄であるアエネアスが、冒険と漂流の果てにローマを建国するまでに至る虚実入り混じった物語を、韻文でつづったものです。トロイア戦争で祖国を失ったアエネアスは、戦火のうちで見た夢の中で、新たなる国(ある時期以降、古代ローマ人たちは、栄華を誇っている自分たちの国こそが実は「新たなトロイア」なのであると思い描くようになっていました)を築くよう示され、部下たちと共に長い放浪の旅に出ます。

『アエネイス』のうちでは、戦いと冒険に関する、ありとあらゆることが起こります。主人公であるアエネアスはとにかく敵と戦って戦って、戦い続け、炎の中で死んだ妻の亡霊に遭遇し、その後には「神々」の采配によって、異国の女王ディドと恋に落ちます。彼女を置いて再び旅に出ようとするアエネイスに裏切られたと思ったディドはなんと、ドラマティックな仕方で自殺を遂げることになります(少年であったアウグスティヌスの心には、この「ディドの死」のシーンが非常に強く印象に残ったようです)。その後の旅のそこかしこでは、さまざまな怪物も出現し、冥界への旅もあり、物語の最後には、敵の王との壮絶な一騎打ちをもくぐり抜け……。つまるところ、『アエネイス』はホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』にも似て、まだ見ぬ広い世界への旅を思い描いては胸をふくらませている青少年たちを夢中にさせずにはいない、当時としては他に並ぶもののない文学作品にして冒険活劇であった、というわけです。

もちろん、アウグスティヌスも4世紀後半のローマ帝国に生きる一少年として、『アエネイス』は大のお気に入りでした。ところが、『告白』における壮年のアウグスティヌスはこの作品を称賛することも、懐かしく思い返すこともなく、逆に「無益」とか「虚妄」といった言葉で語り、少年であった自分にとって、『アエネイス』の物語は「虚栄心をそそる最も楽しい見もの」であったと、いささか皮肉まじりの口調で当時のことを振り返っています。一体、なぜ彼は、かつての自分が心から夢中になっていたものに対してこのように低い評価を下しているのでしょうか。

 

「こういうことがわたしにとって、何の役に立っただろうか?」:アウグスティヌスはなぜ、『アエネイス』のことを称賛できなかったのか

アウグスティヌスが『告白』においてウェルギリウスの『アエネイス』を称賛することができなかった理由、それは、決定的な回心の出来事(「取って読め」)によって、信仰を持つ人間としての「新しい生」を生き始めた彼にとっては、『アエネイス』のような作品が持っている、「人間存在の真実から目を逸らさせてしまう働き」に注意を向けずにいることは不可能であったという事情に求められるのではないかと思われます。

文学作品のうちには真実も宿っていますが、同時に、壮麗な美とドラマ的な緊張がもたらす快楽によって、人間のまなざしを決定的な仕方で眩ませてしまうところがあります。アウグスティヌスは、青年期以降の知恵の探求、わけても、絶望の果てに出会った彼の神のもとでの精神の修練を通して、それまでとは別の人間へと生まれ変わっていました。そうした「新しい人」としての生を生きている彼の目から見た時には、かつての自分自身が熱狂した『アエネイス』は、もはや手放しには受け入れることのできないものになっていました。

アウグスティヌスは、『国家』のうちでホメロスを厳しく糾弾したプラトンと同じく、豊かな文学的感性の持ち主でした。その彼が『告白』においてウェルギリウスを批判せざるをえなかったのは、文学作品なるものが究極のところで、私たち人間を「真実の知恵の探求」から逸らさずにはいないと考えているからです。人間は、自分自身に快楽を与えてくれる幻に夢中になることのただ中で、「存在の超絶」の次元を見失う。彼あるいは彼女は、虚構の海に溺れることのうちで、隣人たちの存在を忘れ、それでも、あるいはそれだからこそ「わたしは今、真実そのものに触れている」と錯覚し続けます。そして、アウグスティヌスのような思索者にとっては、虚構なるものが人間にとって有害なものである最も大きな理由とは、それが「絶対他者であるところの、神の存在を探し求めること」を忘れさせてしまうということに他なりませんでした。少年時代に、かの『アエネイス』を題材にした作文のことで大人たちから褒められた時のことを思い起こしながら、彼は「おお、真の生命、わが神よ、こういうことがわたしにとって何の役に立っただろうか」と、『告白』のうちに書きつけています。

おわりに

プラトンやアウグスティヌスによる文学への糾弾がどこまで的を射たものであるかは人によって評価は異なるでしょうが、「真実の知恵の探求」を、虚構がもたらす「快楽への埋没」から区別するという視点には、少なくとも何らかの見るべきものがあるのではないかと思います。「本来の道に向かって歩み始める前のわたしは、生の旅が全体としてどこに向かっているのかも分からないままに、その時々の高揚した気分に流されて、あてもなく漂流し続けていた」。『告白』を書いた時期のアウグスティヌスにとって、『アエネイス』の物語に熱を上げていたかつての少年時代の日々は、後に何も残すことなく過ぎ去ってゆく夢のようにはかないものに見えていたということなのかもしれません。

[少しだけ長くなってしまいますが、今回の記事について補足をさせてください。フィクションや、文学作品そのもののあり方を厳しく批判するプラトンやアウグスティヌスの見方に対しては、「私たちには虚構の作品を通して、人間性の真実に迫ることも可能なのではないか?そして、それこそが、文学や芸術の可能性に他ならないのではないか?」という問いを提起することも、十分に可能なのではないかと思います。いずれにせよ、私たち人間存在が生きてゆく限り、虚構の物語に関わり続けずにはいられない存在であることはまず間違いなく、彼らも認識していたことであるに違いありません。「それでは、フィクションを消費し続けてしまっている今日の私たちには、一体どのような生の〈善さ〉が可能なのだろうか。」情報技術の爆発的な発展と共に、かつてないほどに大量の虚構を生み出し続けている現代という時代について考える上で、『告白』におけるアウグスティヌスの言葉からは、今なお学ぶべきものがあると言えるのかもしれません。]

 






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