2月22日「待ち、そして望め」

詩編130編には次のような二つの大きな現実がある。苦しみは本当に存在し、神も本当に存在するということである。苦しみはわたしたちの実在の真正性(しんせいせい)の印である。神は、必要不可欠であると共に永続するわたしたちの人間性の証拠である。わたしたちは苦しみを受け入れる。わたしたちは神を信じる。苦しみの受け入れることと神への信仰の両方は、この二つの事柄に存在する深みから生まれる。

しかし、ここにはリアリティーの描写だけでなく、それに参加するための手順がある。そのプログラムは二つの言葉、「待つこと」と「希望」である。この言葉は詩編の中心にある。「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望む。わたしの魂は主を待ち望む。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。」

「待つ」と「希望」という言葉は、夜明けを夜通し待つ見張りのイメージと結びついている。このつながりは、問題を抱えながら「でもきっと、わたしにできることがある筈である!」と問う人に、重要な示唆を与えてくれる。その答えは、「然り! あなたにもできることがある」、もっと正確に言えば、「あなたにも成れるものがある。見張りの者だ!」と。

見張りの者は大切な人だが、たいした業務をこなすわけでもない。地球の大回転も、太陽が放つ巨大なエネルギーも、すべて彼とは無関係に進行しているのだ。彼はそのようなことに影響を与えたり、コントロールしたりすることは何もしない、ただの見張り番だ。彼は夜明けが来ることを知っている。そのことに何の疑いもない。その間、彼は危険にアンテナを張り、再び日の光の下で働いたり遊んだりする時が来るまで、落ち着きのない子どもや動物を慰める。

また、詩編の作者が神を確信していなければ、「見張りの者」として満足しなかったことだろう。詩編の作家とクリスチャンの待ち望むこととは、神が被造物に積極的に参与し、贖(あがな)いのために力強く働いておられるという確信に基づいているのだ。

待つということは、何もしないということではない。「運命だ」と諦めることでもない。神が意味と結論を与えてくれると確信しながら、与えられた仕事をこなしていくことを意味する。インチキなスピリチュアリティーで体裁を取り繕う必要性を感じない。「待つ」とは「絶望とパニックによって人を操作すること」と正反対の事柄である。「心配で居ても立っても居られず、あちらこちらと歩き回ること」と真逆の事柄である。

そして「望む」ことは「夢を見ること」ではない。退屈や痛みからわたしたちを守るために空想的な幻想を紡ぐことでもない。「神が言われたことを神は為(な)される」ということをアンテナを張り続けた状態で確信に満ちた期待を意味する。「望む」とは、信仰というハーネス(馬具の意味。転じて、馬の力を利用するための道具、あるいは安全ベルト)の中に収められる想像力なのである。神の方法とタイミングを受け入れることである。「望む」とは、人間が神に向かって、いつどのように何を行うかを指示し、人間が立てた計画を実行するように求めることの真逆のことである。それは自分の意志を神に押し付けているだけである。

わたしはここで主を待っている。
わが魂は 主を待っている。
主の御言葉に 信頼をおく。
わが魂は 見張りの者が
 朝を待つにも まさって待つ。
見張りの者の 朝を待つにも まさって待つ。
イスラエルよ 主を待ち望め!
(詩編130編5~6節)

わたしの主、神の御前で、わたしは命を託している。
朝が来るまで 待って、見張っていよう。
朝が来るまで 待って、見張っていよう。
―― 詩編130編6節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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