【断片から見た世界】『告白』を読む 「古代」を突き抜けて「中世」へ

アウグスティヌスの探求は、いかにしてキリスト教にたどり着いたのか?

よく知られているように、「生きることの意味」をめぐるアウグスティヌスの哲学の探求は、『告白』のあらゆる箇所において彼が繰り返し「あなた」と呼びかけているところの「イエス・キリストの父なる神」のもとにたどり着くことによって、ようやく安息の地を見出すことになります。

「しかし、主よ、『あなたは永遠にとどまりながらも』、『永遠にわたしたちに怒られることはない』。じっさい、あなたは、塵と灰にすぎないわたしたちをあわれんで、わたしの醜い姿をあなたの御目の前で造りなおすことを喜ばれたのである。そしてあなたは内心の針のようなものでわたしをかりたてて、わたしが内的な目であなたを確かに見るまではわたしを安んじさせなかった……。」

アウグスティヌスがこのような呼びかけを行う人間へと変えられてゆく上では、彼は「生きることの真実」の探求者として、何を通過してゆかなければならなかったのでしょうか。今回の記事では、この辺りの事情について見てみることにします。

新プラトン主義の哲学を受け入れ、さらにその先へ

『告白』第七巻におけるアウグスティヌスの探求は、次の二つの書物との出会いを通して行われました。

① 新プラトン主義の書物。
② 新約聖書、特に使徒パウロの手によって書かれた、いわゆる「パウロ書簡」。

ここで重要なのは、アウグスティヌスは自らの哲学の探求を突き動かしていた内的な必然性に導かれるようにして、哲学書から聖書の方へとその歩みを進めてゆかざるをえなかったという点なのではないかと思われます。

アウグスティヌスは自らの実存を賭けたそれまでの探求の結果、新プラトン主義の思想、すなわち、3世紀の哲学者であるプロティノスの哲学へと行き着きました。プロティノスという人はいわば、古代ギリシアから始まった哲学の探求に対して、一つの決定的な結論を見出した人にほかなりません。後にもう少し詳しく論じることにしたいと思いますが、「哲学の営みとは、究極すれば〈一者〉の観想に帰着する!」という彼の立場は彼自身のみならず、古代哲学そのものがたどり着いた結論であったと言っても、それほど言い過ぎにはならないのではないかと思われます。

しかし、アウグスティヌスには、哲学の営みがプロティノスの出した結論に行き着く必然性を理解し、深く実感しつつも、その答えのもとにとどまることはできませんでした。「この探求には、まだ先があるはずだ」という予感あるいは内的な確信は、彼にあっては決して否定することのできないものでした。アウグスティヌスはその確信、あるいは〈渇望〉に突き動かされるようにして、新プラトン主義の思想をいったん自らのものとして引き受けた上で、さらにその先へと進んでゆくことになります。

古代世界の終わりのただ中で、中世が始まる

問い:
哲学の歴史にとって、「救い」とは何であったか?あるいは、何であるのか?

アウグスティヌスが新プラトン主義の哲学にコミットしていった理由はおそらく、この哲学が人間の「存在の根源」の問いに対して、同時代のいかなる哲学にもまして鋭い仕方で向き合っていたからにほかなりませんでした。この世界のうちに実存する一人の人間であるわたしは、どこから来て、どこへ行くのか。すでに述べたように、プロティノスの思索は古代という時代が緩やかに終わりへと向かってゆく3世紀の地中海世界にあって、いわば一つの総決算のような様相を呈するものであったといえます。

ただし、アウグスティヌスの「存在の根源」への探求が新プラトン主義の哲学を経て、さらにその彼方へと進んでゆかなければならなかったのは、彼の実存を賭けた哲学の探求が「存在の根源」のみならず、自らの「救い」をも希求するものであったからです。

「本当の生活が欠けている。」それなのに、私たち人間はなぜ世界内に存在し続けているのだろうか。すべての物事には意味がないという感覚、「ひょっとしたら、私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか」という問いに対する答えは、どこにあるのか。後に見るように、新プラトン主義の哲学がこうした問いに対して出した答えは、アウグスティヌスを満足させることのできるものではありませんでした。彼の見るところでは、「一者」の観想、あるいは「一者」への融即は、「救い」と極めて近いところに位置しているとはいえ、決定的なところで「救い」には決して到達することのできないものだったのです。

救われることに対するこの渇望、形而上学の最内奥へと突き進んでゆくこの実存のパトスこそが、探求者としてのアウグスティヌスを古代世界の終わりにあって、胎動しつつある新しい時代の先駆者としての道を歩むことを可能にしたものにほかなりませんでした。実存の奥底から湧き上がってくる〈渇望〉に関して諦めることなく、悩み、苦しみながらもその要請と必然性に対して忠実であり続けるとき、探求する人間は「時代の運命」のような何物かのうちで、決定的な役割を果たすことになります。アウグスティヌスはこれから、静かに終わりへと向かってゆく古代世界のただ中で、来たるべき「中世」の可能性の中心を思索しぬかなければなりません。

おわりに

「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」思索する人間が、おのれの探求を突き動かしている内的な必然性の呼びかけに対して応答しつつ、「生きることの意味」をもがき苦しみながら探し求めるとき、その思索は必ずや一つの運命となって、来たるべき時代の方に向かって突き抜けてゆくことになるのではないか。私たちはこれから、アウグスティヌスが出会った新プラトン主義の哲学がどのようなものであったのかを、時間をかけて探ってみることにしたいと思います。

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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