【断片から見た世界】『告白』を読む 「歴史」を生きるということ

アウグスティヌスの探求は、哲学の歴史においてどのような意味を持つものであったか

アウグスティヌスの真理の探求は、さまざまな実存的・理論的な問題に苦しめられながらも進んでゆきます。

「このように、わたしは心にかたく信じて疑わなかったのであるが、しかしわたしは悪がどこから起こるかをたずねあぐんで悩んでいた。神よ、産みの苦しみに悩むわたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう。あなたはそれに耳を傾けられたが、わたしは知らなかった。わたしは沈黙のうちに熱烈に探究したが、心の沈黙の苦悶こそはあなたの慈悲を求める大きな叫び声であった……。」

ここからの探求においては、「哲学の歴史において、アウグスティヌスの探求はどのような意味を持つものであったか?」という論点も大きく関わってきます。今回の記事では、「形而上学」と「宗教」という二つの言葉を通して、この点について考えてみることにします。

哲学の歴史において、形而上学とは一体何であったか

まずは、「形而上学」です。『告白』第七巻におけるアウグスティヌスの探求はまさしく、形而上学的な渇望と呼ぶほかないものに突き動かされながら進んでいったと言えるのではないか。

「見えないもののために死ぬこと、それが形而上学である。」20世紀であるエマニュエル・レヴィナスのこの言葉にも示されているように、形而上学とは、目に見えている世界を超えて、見えないものの方へと、「存在の彼方」へと向かってゆこうとする知の探求にほかなりません。この探求は古代ギリシャにおいて、それまでの先駆者たちの成果を踏まえつつ、プラトンとアリストテレスによって極めて自覚的な仕方で引き受けられるに至りました。それ以来、哲学の歴史が根底的なしかたで新たな局面を迎える時には、「哲学とは形而上学にほかならない!」という思惟の高揚がしばしば見られます。

実存の苦しみのうちで進められたアウグスティヌスの真理の探求を突き動かしていたのも、この「存在の彼方へ!」にほかなりませんでした。「生きることの意味」を見失って絶望の淵にいる彼にはすでに、戻ってゆくことのできる場所はありません。力を振り絞って、行けるところまで進んでいって、「意味」が根底から新しく与えられ直す地点にまで到達するよりほかに道はなくなっています。

そして、哲学の歴史においては、この「形而上学」なるものは常に、「宗教」としか呼びえないものの領域へと突き進んでゆく探求にほかならなかったといえます。ここで言う「宗教」とは、必ずしも教団や組織、あるいは儀礼的な行為の実践といったものを伴う活動のことを意味しません。むしろ、人間が自分自身の「生きることの意味」の方へと向き直りつつ、自らが人間であることの根拠をラディカルに問い進めてゆく、その活動には常にどこか宗教的なところが伴うのであって、アウグスティヌスが実存を賭けて行った真理の探求もまた、そうした意味において「形而上学」と「宗教」とが交差する地点においてなされたものにほかならなかったと言えるように思われます。

「生きることの意味」は、「『歴史』を生きること」として生起する

探求の道を行く人の至上要請:
「もはや、どこにも戻るべき場所はない。わたしは、根底から新しく生きることを始めなければならない。」

どうにもならない錯綜のただ中で、アウグスティヌスが「生きることの意味」を求めてもがき苦しんでいたとき、そこには、「宗教」という言葉が持っている根底的な射程こそが問題となっていたと見ることもできるのではないか。

「宗教 Religion」という言葉は元来、「再結」を、すなわち、「再び結び直すこと」を意味します(ラテン語の「religio」は、「re+ligare」に由来する)。つまり、人生の道を踏み迷いながら、行くべき場所を見失い、「わたしは生まれてくるべきではなかった」という痛みのうちで死のすぐ近くにまで来てしまった人間が、真理において一度死に、「罪」の問題から解き放たれて〈愛〉そのものである神から命を与えられ直しつつ、神と隣人とのつながりを再び結び直すことを、この語は意味していると言うことができるかもしれません。

探求の道を行く人間は自らを脅かす実存の危機のうちで、世界内存在そのものへの関係を見失っている。あるいは、彼あるいは彼女はどうしても生きたい、死ではなく、生をこそ生きたいと願い続けながらも、襲いかかってくる「死」の力に押しつぶされそうになって、うめき苦しんでいる。もしも「救い」のようなものがその人の元を訪れることがあるのだとすれば、その「救い」はどこからやって来るのだろうか。

アウグスティヌスの行った探求は他の多くの先人たちの探求と同じく、哲学の歴史において決定的に重要な結節点の一つをなしていました。一人の人間が自分自身の実存を賭けて行う探求はその人自身の存在を越えて、同じ時代を生きている彼あるいは彼女の隣人たちに対しても、ひいては、その人が生きている時代を越えて、「歴史」そのものに対しても意味を持つことになります。共苦する存在である人間は、時を越えて自分自身に手渡された遺産としての「歴史」に向き合いつつ、共に考え、言葉を交わし合い、共に苦しむことのうちでこそ、生きるということの本当の意味を学んでゆくのではないか。苦しむ人間にとって、哲学の歴史と向き合うことは、彼あるいは彼女に何をもたらすのだろうか。『告白』の言葉に耳を傾けつつ、私たちはこれから、アウグスティヌスという一人の探求者が歩んだ道のりが、哲学の歴史において持つ意味を見定めてゆくことにしたいと思います。

おわりに

「見えないものへの狂おしい要求がある。」2022年の現在を生きている私たちは、「形而上学」や「宗教」といった言葉が、その意味を見失ったまま漂い続けているような時代のただ中を生きています。このような時代にあって、哲学の営みは、果たしてどこに向かって歩んでゆくべきなのだろうか。いま『告白』を読むとは、このような問いに改めて向き合うことをも意味していると言えるのかもしれません。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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