2月21日「畏敬の念」

「主を恐れよ」という言葉がある。「主を畏れよ」がより適切な言葉かもしれない。「畏れよ」「わたしたちが神を信じるのかどうか」については、聖書は興味を示していない。聖書においては、「程度の差こそあれ誰でも神を信じている」を前提としている。「神への応答」に聖書は関心を寄せている。わたしたちは神を「神ご自身」として・尊厳と聖性を帯びた存在として・壮大で驚嘆すべきお方として考えていないだろうか。それとも、わたしたちは神を常に「わたしたちの思いの枠内」に収まるように矮小化(わいしょうか)していないだろうか。「自分の居心地のよい枠内」に閉じ込めようと努力していないだろうか。領域に閉じ込めようと断言していないだろうか。わたしたちのライフスタイルに合うイメージだけで神を考えてはいないだろうか? もしそうであるならば、わたしたちは「創造者である神」や「十字架のキリスト」と向き合っていない。自分達の想像で作り上げられた程度のものと向き合っているのだ。その上、ほとんどの場合は商業的な理由でそうするのである。

偉大な神との関係において、以上のような冒瀆(ぼうとく)的(友達レベルの)親交関係へと陥らないために、聖書は主への畏れを言及している。これは、わたしたちを怯(おび)えさせるためではない。圧倒させられる神の壮大さの御前で畏敬の念をもって神を見つめさせるためである。わたしたちの泣き言と愚痴を黙らせ、むやみに走り回ったりくよくよしているのを止めさせ、神の本当の姿を見、語られる慈しみ深く、人生を変える神の赦(ゆる)しの言葉に耳を傾けることができるためである。

神の然りに畏れを持って立て!
ああ、神を畏れる者は
何と祝福されていることだろうか!
―― 詩編128編4節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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