祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
生きている今というかけがえのない時を、ありがとうございます。
澄んだ空や冷たい風、自然の一つ一つに立ち止まる時、
たくさんのものが与えられていることに気が付きます。
そんな小さな一つ一つをも与えて下さる神様へ、心を向けることができますように。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【聖書】詩編68編1節〜11節
神は聖なる宮にいます。
みなしごの父となり
やもめの訴えを取り上げてくださる。
神は孤独な人に身を寄せる家を与え
捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。
背く者は焼けつく地に住まねばならない。(6節〜7節)
「えっ、こんなところにも神様っているの?」と思うところにも神様はいらっしゃいます。ここにはこの神様、あそこにはあの神様というように、たくさんの神様がいろいろなところにいるのではなく、どんな所にでもすべてを創造された神様は、聖霊となって共におられ、共に働かれておられるのです。むかし「トイレの神様」という歌がとても流行りました。もちろんトイレにも神様は働かれておられます。きれいに掃除をしてくれる人がいれば「ありがとう」と喜んで下さるでしょう。
私は幼い頃よくこのように言われてました。「隠れて悪い事をしたって人は見てないかもしれないけど、神様は見ておられるんだよ。だから悪いことをしてはいけないよ」と。でもこれは”悪い事”だけでなく、”いい事”もなのかもしれません。自分の心の中におられる神様が、”悪い事”も”いい事”も見ておられるのかもしれません。
しかし、今ご一緒にお読みしました「詩編68編」の中では、自分は関わらないような人のところにも、神様はおられると詩人は詩うのです。みなしごの父に。誰も耳を傾けることがないだろうやもめの訴えに。そして孤独な人の傍らに。
私はクリスマスがくる度に思い出します。人が泊まるよう場所ではない家畜小屋で、イエス様はお生まれになりました。このことが教えて下さるように、私たち一人ひとりがどんなに孤独を感じる事があっても、悲しく惨めで、こんなこと誰も解ってくれないし、気にも留めてくれないだろうと思うときでも、神様だけはじっと一人ひとりの傍らにいらして、一人一人を包んで下さっておられるのだと。
あなたがどこにいても神様が共におられます。ひとりぼっちの人は誰もおられません。たとえあなたが神様を思い出せないときがあったとしても、神様は決してあなたを忘れたりしません。たとえ「こんな所になんて誰もいないよ」とあなたが思っても神様はおられます。
一人一人の命と共に神様はおられます。