わたしは良い羊飼いである。 ヨハネ10章11節(参考聖書箇所同書10章7?21節)
主は、「羊飼いは羊のために命を捨てる」(十一節)と言われ、さらに「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(十四節)と言葉を加えられました。ここには命がかかるほどの配慮があるということです。この配慮が、信仰によってキリストとの間に樹立しているのです。羊飼いであるキリストとわたしたちの関係は、今では牧師、牧会(司牧)という言葉になり、人と人との関わりの中に見えるかたちとなって表れます。 わたしたちは、これらの言葉の背後には、羊飼いでいます方と羊であるわたしたちの関係があることを受け止めねばならないでしょう。 しかも主は「わたしには囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」(十六節)と言われます。この関係が、教会の外で、すでにパストラルケアという用語で病人看護、とくに死の看取りの現場で必要であるとの声もあるほどです。教会は教会の外の世界に対して、どのように「牧師」であることができるか、囲いの外の「牧会」はどうあればよいかを考える時期に差し掛っています。