法精神の基本中の基本「人を肩書きで判断するな」【聖書からよもやま話112】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、申命記の1章です。それではよろしくどうぞ。


◆申命記 1章17節

裁判では人を偏って見てはならない、身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


日本は法によって治められている法治国家です。そして法は身分の高い人にも低い人にもすべて同じように適用されるというのが、民主的法治国家の大原則です。これが破られて、「この人は身分が高いから見逃そう」とか「この人は低い身分だから見せしめに厳罰に処してやろう」なんてことをやってしまったら、法治国家は崩壊します。そこまで酷くないにしても「この人の証言は身分が高いから信用できる」とか「この人は身分が低いから証言があてにならない」なんてことは、現代の裁判や取調べでも行われてしまっているかもしれません。シンプルなようで実はかなり難しいルールなんです。

この戒めは具体的には裁判のことを語っていますが、ここから得られることは裁判に関することだけではないんです。僕たちは裁判官ではなくても、自分の頭の中で日々「小さな裁判」を繰り返しています。そう考えれば、この戒めは自分たちの日々の生活にも適用すべきものです。つまり、身分の低い人にも高い人にも同じように接し、同じように話を聞きなさいということです。そうすべきことは頭では分かっていても、実行するのは意外と難しいですよね。

だって、「スーツを着た紳士」と「ボロボロのジャージを着たホームレス」がいたら、僕たちはつい「スーツを着た紳士」を信用してしまったりします。偉い人には礼を尽くすのに、偉くない人にはぞんざいな態度をとってしまったりします。裁判官だって人間ですから、人間のそういったイドラ(偏見)から完全に逃れ切るのは至難の業です。反対に言えば、詐欺師は人間のそういったイドラを知っているので、立派な格好でターゲットに近づきます。もっと言えば僕たち自身も大事な仕事の交渉の時にはスーツを着たりします。これは「それなりの身分にふさわしい、きちんとした格好をした方が相手の信用度が上がる」ということを知っているからです。もちろんそれを悪いことだと言うわけではありませんが、そのくらい実はこの「身分」によるイドラというのは僕たちの思考に染み込んでいて、取り除くのは難しいのだということです。

最終的には「人を身分や肩書きで判断してはいけない」という「おばあちゃんの知恵袋」的な結論に落ち着いてしまいますけど、大切かつ難しいことだからこそ古今東西のおばあちゃんたちはこれを語り続けるのでしょう。

この戒めを語ったモーセが生きたのは紀元前13世紀ごろとされています。今からざっと3400年前です。3400年も前から、裁判についての最も基本的な事項がこうして決められ、記されているんです。まだ「法」という概念自体があいまいで、その体系もなかった頃から、聖書は法の基本について語り続けているんです。この記述から、現代の法体系の基本が生まれたとさえ言えるかもしれません。聖書っていつ読んでもすごい本です。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

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