他人の正しさなんかに割いている時間はない【聖書からよもやま話628】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙第二の13章です。よろしくどうぞ。

コリント人への手紙 13章5節

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

キリスト教業界では残念ながらクリスチャン同士で「あいつは間違っている」「いやいやそっちこそ間違っている」という論争が絶えることがありません。しかし聖書は自分の信仰について「自分自身を吟味しなさい」と教えています。自分ではない他者のことを吟味するのは二の次三の次です。自分をしっかりと吟味するならば、人のことを吟味している余裕なんてないはずです。

そういった論争を見ていますと、まるで「相手が間違っている。故に私たちが正しい」と言わんばかりの論法も少なくありません。しかし、相手が間違っていても、自分が正しいこととは実は何の因果もありません。「1+1=3」が間違っているといくら糾弾したところで「1+1=4」が正しいことには絶対になりません。

もちろんこれはクリスチャンに限った問題ではありません。政治でも何でも「相手が間違っている」ことを殊更に強調して論陣を張る人、相手の間違いを指摘することでまるで自分が正しいかのように振る舞う人はたくさんいますけれど、その論法では決して自分の正当性を証明することはできません。数学でも哲学でも、背理法が有効に機能するのはごく限られた場合だけです。

ですから、クリスチャンもクリスチャンじゃない方も、相手の正しさを吟味している場合ではないんです。吟味すべきはとことんまで自分の信仰であり、自分の正しさです。それは苦しい作業です。なぜなら自分の正しさを吟味することは、自分の間違いを常に直視し続けることだからです。自分の間違いを直視するのは苦しい。しかしどうして人の間違いを見つけるのは苦しくないのでしょう。むしろある種の快楽を覚えることさえあるのは何故でしょう。それこそまさに、人の罪の証拠です。人が決して真理に近づかないようにするための、悪魔の罠です。人は人の間違いを指摘するのに夢中になっているうちは決して真理に近づくことはありません。だから悪魔は人を、その不毛な争いにいつまでも囲い込んでいたいんです。

人は人を評価するのは好きでも、自分が評価されるのは嫌いです。人を選別するのは好きでも、自分が選別されるのは嫌いです。人を批判するのは好きでも、自分は批判されるのは嫌いです。だとするならば、その嫌いなことを人にするのは最小限にして、むしろ自分で自分にその嫌いなことを率先してやってしまえば、誰かにその嫌な仕事を押し付けずに済みます。つまり、時雨分で自分を評価し、選別し、批判する。それがしっかりできていれば、人に評価されたり選別されたり批判されたりする必要はありません。自分でそれができていないからこそ、人にそれをされた時に必要以上に嫌な気持ちになるんです。

人は、他人の正しさなんかを気にして生きている場合ではありません。そんなことを気にしている暇なんてありません。いくら人に正しさを求めたところで、その人が変わらなければ何の意味もないんですから。それよりは自分を吟味して自分が変わる方が何百倍も生産的です。

たとえば政治なら「あの政治家はこんな悪いことをやってるぞ」と言う人は、その政治家に投票していない人ばかりです。自分の投票した政治家なら、多少の悪事には目をつぶってしまったりしがちです。しかし本当は自分が投票した政治家にこそ、強い監視の目を向けるべきです。自分が正しいと思った人が正しくないことをやっていることに怒るべきです。同じように自分が正しいと思ったことが本当に正しいのか、それを常に吟味すべきなんです。自分が正しくないと思ったことを、いくら「そら見たことか。ほらやっぱり正しくないぞ。」と繰り返してもあんまり進歩はないんです。

ある料理を、人がおいしいと思うか、まずいと思うか。そんなことはどうでもいいんです。自分にとっておいしいかどうか。それがすべてです。それをまずいと言う人に「それは間違いだ。人生損している」なんて言う暇があったら、自分でそれをおいしく食べる方がよっぽどみんな幸せです。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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