正しくあるためには自力で正しくなろうとしないこと【聖書からよもやま話440】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 歴代誌第一の24章です。よろしくどうぞ。

歴代誌第一 22章4節

ただ、どうか主があなたに思慮と悟りを与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ダビデが息子ソロモンに神殿の建築を命じたときに添えた言葉です。これをよく読むと、ダビデはソロモンに対して「律法を守りなさい」と命じるのではなく、「君が律法を守れますように」と神様に祈っています。

僕たち現代のクリスチャンはつい「律法や神様との約束を守らなくては」と、自分の力で「クリスチャンにふさわしい行い」をしようとしてしまいます。しかし本当は、それを成し遂げるのは自分の力ではなく、神様の力です。人間は自分の力で「正しく生きる」ことはできません。神様によって「正しく生かされる」しかないんです。そしてそのためにはこのダビデのように「律法を守らせてください」と祈ることが必要です。

ダビデにとってソロモンは自慢の息子でした。しかしその自慢の息子でさえ、自分の力で神様の心にそって生きることは不可能であると、ダビデは知っていたんです。どんなに優秀で賢い人間であっても人間である限り自力で神様の心にそうことは不可能であると、知っていたんです。

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UnsplashAndrew Valdiviaが撮影した写真

僕たちはつい、自分の力で罪から離れようとしてしまいます。そして挫折し、自己嫌悪や自暴自棄に陥ったりさえしてしまいます。あるいは「私は罪から離れることができたぞ」と威張ったりしてしまいます。本当はその気持ちこそが傲慢であり、罪であることに気づかずに。

クリスチャンは「罪から離れること」よりもまず、「自分が自力では罪から離れられない者である」ことを自覚しなくてはいけません。その自覚から祈りが生じ、神様が少しずつ罪から僕たちを離してくださいます。自分で離れるのではないんです。神様に離してもらうんです。雪道でスタックしてしまった車のようなものです。車は自力ではタイヤが空回りするばかりで、そこから脱出することができません。脱出するには人が押したり、他の車で引っ張ったり、クレーンで持ち上げたりと、外部の力によらなくてはいけません。その際には「自力では脱出できない。助けを求めなければ」という判断が必要です。僕たちもまた「自力では罪から脱出できない。助けを求めなければ」という判断を求められているんです。その判断が遅れて自力にこだわっていては、事態は悪化するばかりです。

正しくあることは大切ですが、正しくあるために必要なことは、自力で正しくあろうとか正しくなろうとしないことです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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