主の御名をあがめます。
MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、申命記の12章です。よろしくどうぞ。
申命記 12章21節
あなたの神、主が、あなたに告げたとおりにあなたの領土を広くしてくださって、あなたが肉を食べたくなるときには、「肉が食べたい」と言ってよい。あなたは食べたいだけ肉を食べてもよい。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ここではイスラエルの民に、神様から「生活のきまり」のようなものが定められた箇所ですが、そのなかにわざわざ「肉が食べたいときは遠慮なく言ってね。好きなだけ食べていいからね」ということが書いてあります。なんだか嬉しくなりますよね。僕はとても肉が好きなのでなおさらなんだか神様に対して親しみが湧いてきます。
「肉を食べる」ということには、現代では賛否両論あります。両論と言ってもまだ「肉を食べる派」の方がかなり数的には多いと思いますが、「肉は一切食べないし食べるべきでもない」と考えるヴィーガンの方々も少なくありません。僕はその正否について特に考えは持っていませんし、ときどき1週間くらいヴィーガン生活をしてみたりすることもあります。それはそれで楽しいですし、普段とは違った豊かな食生活を送ることができます。最近はヴィーガン食品もバラエティ豊かになってきていますから、新しい食材としてそれらを試すのも面白いです。
しかし神様はわざわざここで「肉を食べたいなら遠慮なく言ってね」と言っています。つまり神様は人間が肉を食べたがる性質を持っていることを知っておられるということです。「お腹が空いたら遠慮なく言ってね」ではなく、「肉!」と指定しているということは、それだけ人間の持つ肉食への欲求というのは強いものなのでしょう。だって神様は人間をつくった方ですから、人間が何を欲するのかもよくご存知なんですから。
一方で、創世記によると最初の人間であるアダムとイブはおそらく肉は食べていませんでした。神様は二人に「種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木」を食べ物として与えています。人間が肉を食べるようになったのは、ノアの方舟のときに「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる」と神様が言ってからのことです。このことから、「人間はもともと肉を食べるようにはつくられていない。ノアに肉食が許されたのは洪水によって植物が流れ去ってしまったので、その食糧難を乗り越えるための緊急避難にすぎなかったのだから、今の人間は肉を食べるべきではない」と考える方もいます。
とはいえ、人間には犬歯があります。ライオンや狼のような肉食獣ほど発達はしていませんが、確かにあります。犬歯は肉を食べるための歯です。草食動物には犬歯はありません。神様が人間に犬歯を与えているということは、やっぱり人間は肉を食べるように設計されているのだ、と考える方々もいます。
・・・結局どっちが正しいのか分からなくなってきました。が、新約聖書ではイエス様が「何を食べるか何を食べないかとか、そんなことは大した問題じゃないよ。もっと大切なことがたくさんあるでしょ」とも言っていますし、「口から入るものよりも、口からでるものの方に気をつけなさいな」とも言っています。
いずれにせよ、今日の箇所でも神様は「肉を食べたいなら食べて良いよー」と言ってくださっているので、僕の今夜の夕食は鶏鍋の予定です。若い頃は牛肉や豚肉が好きだったんですけど、近頃だんだん鶏肉や魚の方を好むようになってきました。ともあれ、大切なことはどんな食べ物も神様に与えられていることに感謝しておいしくいただくということかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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