「天国」には必ず水があります。【聖書からよもやま話266】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
体調不良によりしばらくお休みをいただいておりましたが、ずいぶん回復いたしましたのでまた通常運転に戻して参ろうかと思います。よろしくお願いいたします。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エゼキエル書の47章です。よろしくどうぞ。

エゼキエル書 47章12節

川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

聖書のことばはよく「水の絶えることのない泉」にたとえられます。この泉から飲む者は乾くことがない、と。人は心の安らぎ、癒し、希望を求めて様々なところを探します。立派な家と立派なベッドにそれを求める人もいるかもしれません、家族やパートナーからの愛情にそれを求める人もいるかもしれません、おいしい食事やお酒にそれを求める人もいるかもしれません。しかし、それらからもたらされる安らぎや癒しや希望には限界があり、やがて枯れる時がきます。いつまでも枯れることなく、ずーっとそれらをもたらすことができるのは聖書のことばだけだと、聖書自身が語っています。
image
聖書から流れ出る命の水、それが川になり、そのほとりには絶えることなくあらゆる恵みが現れると、エゼキエル書は暗喩しています。聖書の泉のほとりにいれば、人はいつまでも命を保つことができますが、そこから離れれば広がるのは砂漠ですから命を保つことができません。水のあるところにしか、人間の安心や幸せは生じないんです。

良い水に育まれた肥沃な土がなければ、どれほど種をまいても実ることはありません。文明は大河やオアシスのほとりにできると相場が決まっています。豊かな水のあるところでこそ、人は豊かに生きることができます。それは「心の水」でも同じことです。

「天国」や「楽園」や「パラダイス」をイメージすれば、誰がイメージしてもそこに川や湖などの水があるはずです。水のない楽園なんてありません。その水の源をどこに求めるのか、それによって人の幸せの在り方は大きく変わります。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。


Related Posts

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

この記事もおすすめ