あの凶弾。憤りには銃弾よりも祈りを。【聖書からよもやま話232】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書 詩篇の76篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 76篇9〜10節

神が さばきのために
地のすべての貧しい者たちを救うために
立ち上がられたそのときに。
まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ
あなたは あふれ出た憤りを身に帯びられます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「さばき」と「地のすべての貧しい者たちを救う」のを神様は同時に行うということなのでしょうか。今の世の中、まさにその「さばき」「地のすべての貧しい者たちを救う」が必要とされているように思います。神様が立ち上がるその日を待ち望みたいと思います。そしてその日には、神様が人のすべての憤りを一身に背負ってくださるとも書いてあります。

僕たちの生活にはさまざまな憤りがありますが、それはやがて来る日には神様がすべて背負ってくれるのだとすれば、僕たちは自分で誰かに憤りをぶつけなくてもいいわけです。

安倍元総理が凶弾に倒れました。犯人には安倍さんや社会に対する憤りがあったのかと思います。安倍さんに対して憤りを持っていた方は少なくありません。保守でもリベラルでも、右でも左でも、大きなことをすれば多くの憤りを受けます。しかし、その憤りをあのような形でぶつけるというのは、やがてその憤りを一身に背負ってくださる神様に対する越権行為であり、神様を無視することです。到底、受け入れられる行為ではありません。

そしてまた、安倍さんに起こった悲劇のために今、憤っている方も少なくありません。その原因とおぼろげながら見えてきている宗教団体に対して憤る方も起こってきました。しかしその憤りをその宗教団体やその他の誰かに対して憤るままにぶつけることは、避けなければならないように思います。

僕たちの生活にはさまざまな憤りがあります。憤ること自体は悪いことではありません。しかし問題はその憤りのエネルギーをどこに向けるかということです。そのエネルギーを憤る気持ちのままにぶつけては要らぬ争いや悲劇が生まれてしまいます。僕たちに求められていることは憤った時に「私は憤っています」と、その気持ちを素直に祈りに乗せて神様に告白することではないかと思います。そうすればやがてくる日に、神様がその憤りを一身に背負ってくださる、そのことを信じて祈ることが、憤りの暴発や復讐の連鎖を防ぐことになるかと思います。聖書で望まれている「平和をつくる人」とは、そういう人なのかもしれないと思わされます。

憤る時こそ、祈りを。それが最終的には必ず、銃弾よりも強い力になります。

安倍元総理の上に、ご家族の上に、関係者の皆様の上に、平安と慰めが与えられますように祈ります。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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