【連載小説】月の都(24)下田ひとみ

 

 

桐原家の近くに青磁(せいじ)川という川が流れている。昔、近所の子供たちはよくここで泳いだり、蜆(しじみ)をとったりしたものである。星屑(ほしくず)のように舞う蛍(ほたる)を団扇(うちわ)で追ったりもした。その頃はまだ灌漑用の水車を農夫が足で漕(こ)ぐ姿が見られた。今はそんな光景もなくなってしまったが、石造りのアーチ橋は残っていた。駅への行き帰り、志信は毎日、この橋を渡って大学へ通っていた。

夕さりの空に月が出ている。薄墨(うすずみ)を流したような山々の向こうには、残照が茜(あかね)色に空を染めていた。

志信が駅前の商店街を通り、住宅地を抜け、青磁川にかかる橋を渡り終えると、琴の音が聞こえてきた。

家の門をくぐって、小石を敷き詰めた通路を歩き、玄関に入った。靴を脱いで、廊下を行き、階段の下に鞄(かばん)を置くと、まっすぐ奥座敷に向かっていった。

「ただいま」

襖(ふすま)を開けて部屋に入ると、初めてふみは志信に気がついたようだった。このところ、来月に迫ったお披露目(ひろめ)会に向けて、ふみは琴の稽古(けいこ)に余念がなかった。

「ごめんなさい。いつお帰りになったんですか。ちっとも気がつかなくて……

ふみは楽譜を閉じて琴爪を外し始めた。

「夕食はあとでいいよ。稽古を続けなさい」

「でも……

「昼が遅かったんだ。先に風呂に入るよ」

志信は部屋をあとにした。

 

浴室は、中庭を囲んだ渡り廊下の先にあった。壁も天井も浴槽も手桶に至るまで、すべて檜(ひのき)造りである。これは志信のひそかな自慢であった。檜は肌の当たりがなめらかで、湯もやわらかい。

湯ぶねに浸(つ)かると、高窓の外に月が見えた。

月を眺めながら、ふみが弾く琴の音に志信は耳を澄ませた。

──紅薔薇(べにそうび)だな。

陶子がこの家に出入りしていることは、ふみから聞いて知っていた。そうなったいきさつも承知している。琴のお披露目会で踊ってもらうのを志信に報告した時のふみは、たいそう嬉しそうだった。

志信はこんな妻をほほ笑ましく思っていた。

美しい人に夢中なのだ。子供のようにあどけない。いかにもふみらしいではないか。

陶子が伝道師であることが少し引っかかっていたのだが、それは杞憂(きゆう)に過ぎなかったと、まもなくわかった。ある時、ひどく真面目な顔をして、ふみがこう言ったからである。

「陶子さんといると、陶子さんが信じておられる神様は本当におられるんだって信じられるんです。陶子さんが神様を愛し、神様も陶子さんを愛しておられる。そのことが、陶子さんを見ていると本当によくわかります。信仰者って幸せですね。うらやましくなるような神様との美しい関係です。

でも、私はクリスチャンにはなりません。私には志信さんがいてくださいますから。私は志信さんを信じています。それだけで十分なんです」

湯煙の向こうの月を眺めながら、志信はこの時のふみを思い出していた。

私を信じていると言ってくれる妻。それはふみの単純さだろうか。私はそれに値する人間だろうか。(つづく)

月の都(25)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

この記事もおすすめ