【連載小説】月の都(25)下田ひとみ

 

眼を閉じて、志信はゆったりともの思いに耽(ふけ)った。

信じるとはどういうことなのだろう。人は何かを信じたり、誰かを愛したりしないではいられないのだろうか。

つれづれに思いを巡らせているうちに、ある光景が浮かんできた。

それは滝江田(たきえだ)邸に仲間が集まって酒宴を催していた時の出来事だった。

当時、4、5歳だった勲(いさお)が庭で、滝江田が作った竹馬を器用に乗りこなしていた。滝江田は一人息子を眺(なが)めて言った。

「この子は父親に似ないでよかったよ。俺(おれ)は運動ができなくて、ずいぶん損をしたからな。絋子(ひろこ)も運動は駄目なんだが、誰に似たのか、勲は駈けっこも一番、歌もうまいんだ。俺は音痴だから、歌がうまいのは母親似だな。性格の良さも、器量良しも、母親似。勲は俺にはぜんぜん似てないんだよ。でも、だからかな、こんな良い子はいないよ。素直で、一途で、いじらしくて。この子なら、俺はたとえ父親でなくても愛するよ。こんな子は誰でも愛さずにはいられないさ」

たいした親馬鹿ぶりである。

「幸せな奴だ」

志信は声に出してそう言うと、両手で湯をすくって顔を拭(ぬぐ)った。

たとえ父親でなくても愛する、か。馬鹿を言え。父親でなくて、誰があんなに愛せるものか。

勲が高熱を出したというので、滝江田が授賞式をすっぽかした話は有名であった。一人息子のこととなると人が変わる。あの滝江田が、義理も恥もかき捨てるのである。

子供とは、そうまで可愛いものであろうか。

湯ぶねから見える高窓の月は、仏像の貌(かお)のような光を放っている。それは、ふみが弾く紅薔薇(べにそうび)によく似合っていた。

月と琴の音。

志信はふたたび湯をすくうと、両手で顔を拭った。

そして、心の中で言った。

私にはふみがいる。私には、私を信じてくれる妻がいる。それだけで、十分だ。(つづく)

月の都(26)

 

 






メルマガ登録

最新記事と各種お知らせをお届けします

プライバシーポリシーはこちらです

 

オンライン献金.com