高山右近は信徒使徒職ナンバーワン カトリック金沢教会の九里彰神父に聞く

 

キリシタン大名・高山右近のゆかりの古都・金沢。そこにあるカトリック金沢教会の九里彰(くのり・あきら)神父に話を聞いた。

九里彰神父とカトリック金沢教会の信徒の方々

信仰のために大名をやめさせられた高山右近が、加賀藩の前田利家に客将として招かれたのは1588年のこと。右近が金沢で最初に住んだところのすぐ近くにカトリック金沢教会はある。

カトリック金沢教会

聖堂の玄関脇には、右手に聖書を持ち、左手で天を指す右近の銅像が立っている。また祭壇後ろには、右近とテレジア(リジューのテレーズ)、フランシスコ・ザビエル、細川ガラシャのステンドグラス。右近の聖遺物(チョッキの一部)も常時公開されている。

高山右近像

──豊臣秀吉は最初、織田信長に倣ってキリシタンを優遇し、高山右近も重用していたと聞きます。

貿易のために宣教師とも親しくしていた秀吉ですが、ある時、「スペインとポルトガルが宣教師に続いて軍隊を送り込んで日本を征服する」と聞いたことで、方向転換したんですね。また徳川家康も、キリシタンを生かしておくと、やがて反乱を起こすので、今のうちに追い出しておいたほうがいいということで、「バテレンの大旦那」と言われていた右近を国外追放したと考えられます。

──「バテレンの大旦那」ですか。すごい呼び名ですね。

右近はすごいですよ。カトリックには「信徒使徒職」というのがあって、一般信徒も社会の福音化のために派遣された使徒であると考えるのですが、右近はその信徒使徒職のナンバーワンです。金沢で26年間暮らし、金沢城の修築、用水路の整備など、いろいろなことをやり遂げ、金沢の町の基礎を作ったと言っても過言ではありません。前田利家は武将としての右近をすごく尊敬していて、客将として受け入れたんですね。それは単に優秀な武将だけではなく、人柄に惹(ひ)きつけられたのだと思います。

祭壇とステンドグラス

──茶人としても優れていたといいます。

千利休の七哲(7人の高弟)の一人です。右近は茶室を祈りの間にして祈っていたんですね。お茶の作法がミサに似ているといわれますが、右近のことを考えれば、キリスト教の影響を受けたことは間違いないです。小田原攻めのとき、右近が茶室でお祈りをしていたら、それを見ていた細川忠興(ただおき)らが「こんなところでお祈りしている」と笑ったので、右近はものすごく怒って、しばらく口をきかなかったといいます。また、武将たちが卑猥(ひわい)な話をしていて、そこに右近が入ってくると、目配せし合ってシーンとなったという話も残っています。

高山右近の聖遺物

──列福されるのに400年かかったのはどうしてでしょうか。

申請されると、カトリックでは裁判形式で列福を決めます。その時に列福調査をするのですが、福者としてふさわしいという証拠が通らないとダメなんですね。あとは、政治的・歴史的に見て「今、この人を列福させるべき」というのがあって、ちょうどそういうタイミングだったと考えられます。400年前、日本の教会が滅亡する危機にあって、信徒として活躍した右近を、今日、模範として仰ぐべきということを考えたのではないでしょうか。

──最後に高山右近について一言お願いします。

右近は秀吉に棄教を迫られたとき、こう答えました。「上司には忠実を誓うが、その上にある神の命令は何よりも大切にする」。そのため、右近は明石の領土を剥奪されて追放されてしまうのですが、その話を伝え聞いたローマ教皇はたいへん感動したといいます。1614年に国外追放になってマニラに渡った時には、現地の総督が港に出迎え、祝砲を打って国賓並みに迎えています。海外ではそれだけ有名だったのです。右近は、普通ならできないような模範を残して亡くなりました。右近の生き方を見ると、戦国時代の信仰がものすごく純粋で、命をかけたものだったのだとつくづく感じます。

 






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