オアシスとしての『クイア・レッスン』(後編) クイアのお刺身も踊り出す!

クイア・レッスン -私たちがLGBTQから学べること- (エメル出版)

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私たちは、学び直さなければならないのだ。今こそ、性やジェンダーにおいて優位だった人々の教えによって抑圧され、見えなくされ、沈黙させられた人々から学び直す時だ。使い古された懐疑的なアプローチが頭にこびりついている私たちにとって、そのプロセスはただ新しい知識を学ぶような簡単なものではない。それは性的指向とジェンダー・アイデンティティに関する教会の立場を変えるような、段階的かつ明確な意志のあるプロセス、新しい質問を新しい教師から学び直すプロセスでなければならない。(『クイア・レッスン』序章より)

 キリスト教界隈で性的少数者の「性/生」があまりに平板に語られるのに面食らってしまうことが多々ある。「LGBT」が「同性愛者」と同義であるかのように語られてバイセクシュアルやトランスジェンダーの人々の存在が不可視化されたり、「ゲイ神学」や「クイア神学」が一枚岩で存在しているかのように単純化されたりというのは当たり前[1]

 締め切りを大幅に過ぎて必死にこの書評を書いている間にも(編集の方、すみません)、YouTubeに投稿されたとある動画がSNS上の一部のクリスチャン界隈で物議を醸している。その動画は複数の牧師たちの対談動画(すでに削除済)なのだが、一人の牧師が視聴者からの質問に答える形で、

①「同性間の恋愛はお勧めしない」

(私の心の声:同性愛傾向と同性愛行為を分けて考えようとする一部のクリスチャンの常套戦略に基づいての発言らしいのだけど、どうせなら『願望を持っただけで罪』というマタイ5:28と向き合って、聖書主義を貫いてほしいところである[2]

②「ゲイの友人がいる」

(ああ、マイノリティについて語る時に一番やっちゃいけないI have black friends論法……。性的少数者への無知・無関心を声高に表明しているに等しくて、聞いているこっちが恥ずかしくなる……[3]

③「自分はゲイにモテる」

(もう何が言いたいのかよくわからないし、ただ不快……)、

というような趣旨の発言をしたらしい[4]

 ああ……。あまりに凡庸でつまらない無知と無関心の垂れ流し……。どうせなら、もっとぶっとんだ偏見やフォビアを披露してびっくりさせてほしいものである。

 性的少数者の「性/生」の単純化や抹消も、有害でつまらない無知や偏見の垂れ流しもキリスト教界隈では日常茶飯事で、腹立たしさが全くないと言ったら嘘になるが、「仕方がない」と思ってしまう自分もいる。ほとんどのクリスチャンがシスジェンダー・ヘテロセクシュアルのおっさん牧師の説教を教会で聴き、そのシス・ヘテロおっさん牧師たちも「シス・ヘテロおっさん」の書いた聖書(議論の余地あり[5])やら、シス・ヘテロおっさんの書いた註解書やら、シス・ヘテロおっさんの書いた神学書やらを読んでいることが想像に難くない現状を考えたら、視点や思想に偏りが出るのも当然のことのように思えるからだ。世代を超えて引き継がれ、キリスト教を覆っている 「シス・ヘテロおっさん色」をどうにかしないことには始まらない。

 『クイア・レッスン』はキリスト教が変わるために「新しい質問を設定し、クイアな人々から学べ」と言うけれども、果たしてそれだけで十分だろうか。シス・ヘテロおっさん中心のキリスト教の構造そのままに性的少数者がレッスンに駆り出されたところで、マジョリティに都合の良い形で料理されるのがオチなのではないか。まな板の上のクイア……。クイアのお刺身に、クイアの味噌煮込み……(ちょっとビール飲みたくなってきた)。そんな不安が湧いてきて「キリスト教界隈でクイア・レッスンが要請されたとしても、自分はなるべく関わりたくないかも」というのが正直な思いである。

 著者のサンダース自身が「クイアな人々から学べ」という自らの提案をどれほど『クイア・レッスン』内で体現できているのか、についても心許ないところがある。クイアな人々の個別具体的な「性/生」のありようにはほとんど触れていないし、既存のキリスト教の価値観や慣習に難なく順応するような事例ばかりを選り好んでいるようにも見える。「急進派−改革派」のような二分法的構図も現実の複雑さや葛藤などを矮小化/単純化してしまっている気がするし、「クイア」とはそんなに関係がなさそうなジョン・カプートという「大物神学者」に依拠してその大部分を論じてしまっている第六章を読んだ際には「はて、クイアな人々はどこに?」と困惑してしまった。困惑の内に「やっぱり新しい質問だけじゃダメなんじゃないの?」という思いを強くするのである。「私たちは、学び直さなければならない」という『クイア・レッスン』のメッセージをどう生きればよいのだろうか。

 「人々の生の不安定さや儚さを前に、ほとんどの神学の何と無意味なことだろう![6]」という嘆きをきっかけにしてリン・トンスタッドという神学者が展開するキリスト教神学への批判はキリスト教界全般にも少なからず当てはまるように思う。多くの神学者−−そして、おそらく多くのクリスチャン−−が共有しているであろう「神が人知や言語を超えた存在である以上、神学−−神についての私たちの知識の(再)生産−−は常に有限で不完全であり、一つの『人間の営み』としての域を決して出ない」というような良識的で謙遜な大前提に落とし穴が存在することをトンスタッドは指摘する。そのような前提を表明するばかりで、多くの神学者たちがその「人間の営み」の複雑に入り組んだ内実に分け入って行こうとしない実情を告発しているのだ。神学の有限性を「人間の営み」の一言で一般化してしまうことで、神についての私たちの知識を条件づけている政治的・経済的・文化的・情動的・性的な現実の込み入ったありようを詳細に丁寧に見ていく道筋が遮断され、それゆえに神学の議論における個別具体的な生身の「生/性 」の取り扱いが極めて粗雑なものになってしまっていると言うのである[7]。人々の「生/性」をそのような雑な一般化で単純化・抹消してしまうという事態は、神学特有の「人知を超えた神」を希求し他の学問領域と距離を置こうとする傾向によってより悪化し[8]、また「神の前に小さく弱い罪人としての私たち」というような謙遜の姿勢が実質的には「人間の営みに内在する暴力的な実態」への具体的な分析と取り組みを阻害し[9]、さらには神学の持つ告白的性質ゆえに「言うだけ番長」の現状追認と自己免責が事実上まかり通ってしまっている[10]、とトンスタッドは容赦なく畳み掛けていく。

 ちょっと小難しく書いてしまったが、私なりのひねりと勢いを加えてこのように語り直せるかもしれない。

私たちが神について考えたり語ったりする時に「有限な一個人の考えに過ぎないから……」とか「あくまで一つの共同体としての不完全な立場だから……」とか「神学は結局のところ罪人の営みで、一重に神の恵みによってかろうじて可能になっているわけだから……」とか言うだけでお茶を濁さないで! その 「有限」で「不完全」で「罪」の影響を免れ得ない「考え・立場・営み」を条件づけている、極めて人間的で複雑に入り組んだ現実に向き合ってよ!政治やカネや差別やセックスや快楽や怨念や願望や暴力や情動やらが渦巻く泥沼に分け入ってよ! 「誰が神学を営み、誰がその営みから排除され、誰の文献が参照され、誰の声に権威が与えられているのか」に目を向けてよ! 「キリスト教界の教義や組織形態がどのような欲望と権力構造とロジックによって正当化され、再生産されていて、さらにはそれらがどんな効果を生み出しているのか。何に関心を持ち、何に焦点を当て、何を不可視化し、何を無視しているのか。誰を励まし、誰を強め、誰にリソースや権威を分配し、逆に誰を沈黙させ、誰を周縁化し、誰を犠牲にし、誰を排除することで成り立っているのか。それはジェンダーやセクシュアリティ、人種や国家、健常性や経済格差についてのどのような思想・規範・制度・構造を反映しているのか」に鋭いメスを向けてよ!

 そのために神学を他の学問領域(たとえばフェミニスト理論やクイア理論)に開く必要があるだろう。キリスト教を教会の「外」[11](たとえばセックスワーカーの権利運動やSNSを中心に息巻くトランスフォビア・トランスミソジニー)に開いて行かなければならないだろう。教会で通常取り上げられなかったり、タブー視さえされていたりするような事がらについて「不謹慎」に大胆に、けれども同時に慎重かつ丁寧に語り始めなければならないだろう。「シス・ヘテロおっさん」が牛耳るキリスト教界の中枢を開放して、変態(クイア)たちのジャムセッションやダンスパーティーをおっぱじめなければならないだろう。ほら! おっさんもリズムに乗って一緒に踊れば、楽しくなれるはずだよ。キリスト教をジャックし、神学を即興演奏に、教会をダンスクラブにせよ! 「神のみ心にかなった」一部の人たちがお決まりの教理や慣習や組織形態の中に生身の人間を押し込めるのではなく、みんながそれぞれの楽器を持って集い、それぞれの音を鳴らし、周囲と呼応しリズムを共に刻みながら「私たち」の音楽を即興的につくり出し、つくり直していくような神学。高い所から牧師が一方通行で語り、お偉いさんたちが重要事項を決めるのではなく、生身の人間と人間が出会い、触れ合い(コロナ落ち着いたらね)、聴き合い、語り合い、支え合い、踊り合う中に生起しつづけるような、(絶対的な)台本も階級もない教会。イエーイ。これなしに「神学は人間の営み」と言ったところで、それは人間存在の有限性や罪性に真正面から取り組んだことにはならないし、神についての知識を生産する極めて人間的なプロセスを無自覚に絶対化・神格化してしまうことにもなりかねない。これなしにクイアな人々から学ぼうとしたところで、これまで周縁化/排除されてきた人々を都合よく調理したり、平板に味つけたり、自己正当化の具にしたりするのがオチなのではないか、と危惧してしまう。複雑に入り組んでいて全然安定しない、常に権力の不均衡の中に位置づけられていて、決して語り尽くすことのできない、人間の込み入った現実に、丁寧に・誠実に・根気強く向き合い、触れていく方法が必要だ。その現実について立体的に・即興的に・ユーモラスに・ジャムセッションのように語り合い、ダンスし、そこから新しい世界を手作りしていく術を身につけなければいけない。一緒に身につけたい[12]!  サンダースからの呼びかけにアドリブで応えていくために! 真のクイア・レッスンのために!


[1] 前編で述べた神学研究会においても、去年出版された『LGBTと聖書の福音 それは罪か、選択の自由か』(アンドリュー・マーリン著、いのちのことば社、2020年)においても、そのような混同・単純化が顕著で、ちょっと悲しい。

[2] 「(『同性愛者は生まれつき同性愛傾向という重荷が与えられてはいても、神はその傾向を乗り越える力を与えて下さる』というような)主張は同性愛傾向と同性愛行動の明確な区別に依拠していて、そのような区別をイエスははっきりと−−少なくとも異性愛男性については−−否定しているのだ(マタイ5:28)。もしイエスの言葉を真剣に受け止めるなら、性的な罪とは身体が実際に行動に移したことに限定されるとは限らず、そのようなことを求める欲望自体に存在していることになる。イエスはアセクシュアルの人々だけが性的な罪から自由であると言いたかったのだろうか?イエスの言葉に照らしてみると、傾向と行動を区別しようとする神学的ロジックの正当性は確かに消滅してしまうのだ。ゲイの人々について耳障りの良い言葉を用いて文化的な不名誉を回避しようとするよりも、むしろホモフォビックな教会は自分たちの確信に従い「同性愛、つまり同性愛傾向こそが罪なのだ」と認識すべきである。そうしない限り、彼らのホモフォビアは神学的な真剣さを喪失してしまう、と私は論じたい。(…)

あるいは、傾向と行動の区別に執着する教会は同性愛も異性愛も同様に罪深いと認めなければならず、両者(同性愛/異性愛)の区別はもはやキリスト教の性道徳の重要な境界線ではなくなるかもしれない」

(Linn Marie Tonstad. Queer Theology: Beyond Apologetics (Cascade, 2018) p.44-5私訳)

なお、ここで紹介している論文や書籍について十全に紹介・説明することは私の手には余るので、興味のある方は原文に当たっていただけたらと思います。私に連絡していただけたら入手のお手伝いができるかもしれません。

連絡先:dan1110tokyo@ジーメール.コム

[3] I have black friends論法というのは、「自分には黒人の友達がいるのだから、差別するわけないじゃん」と言うことで人種差別者としての糾弾を回避し、自分の立場・言動・行動を擁護するために用いられる自己正当化・自己免責のための論法。米国の奴隷主が奴隷制を維持するために用いてきた歴史があり、人種差別発言・行動や人種的マイノリティへの暴力を正当化するために現在も度々用いられる。「black friends」を他のマイノリティに置き換える事で、幅広く応用可能。このようなレトリックを使った時点で「マイノリティが日常的に受けている差別に何ら関心が無く、リサーチすらろくにしていないこと」が露呈してしまうので、内なる差別意識を隠蔽したい人は使わないのが賢明。

参考:John Eligon. “The ‘Some of My Best Friends Are Black’ Defense” New York Times. 2019. https://www.nytimes.com/2019/02/16/sunday-review/ralph-northam-blackface-friends.html. Accessed 24 September 2021.

[4]  YouTubeに投稿された動画はすでに閲覧できないようにされていたため、Twitter上のコメントを元に自分の記憶(その牧師の発言部分のみ1回視聴)をたぐり寄せたので、発言の内容やニュアンスに若干のズレがあるかもしれません。

[5] 近代以降に発明されたセクシュアリティやジェンダー概念を、古代を生きた聖書著者や聖書の登場人物に当てはめるのは時代錯誤だという議論が存在するため。

[6] 読みやすさのために言い換えているが、正確には、命の儚さを経験して神学者としての真理の探究の無力さを痛感していたトンスタッドが友人とアメリカ宗教学会の最中に交わした会話:「かつては確かに存在していた命が喪失されてしまったいう文脈において、この学会で扱われている論文や対話の多く−−あくまで「多く」であって「すべて」ではないというのが重要な点なのだが−−のなんと無意味に映ることだろう!」(Linn Marie Tonstad. The Place, and Problems, of Truth. Literature&Theology, 35.1 (Oxford University Press, 2021) p.18私訳)

[7] 「(神学を)体系づけるこれらの一般的な手法は、それが対象にするもの(神)と神学が同一たり得ないこと、そしてどんな神学であっても人間による一つの営みに過ぎないことを認めるのである。しかし、このような認識、とりわけ『人間による営みに過ぎない』という認識が構築される仕方にこそ、その認識が実際に意味し、言及しているところから遠ざかっていく傾向が見出されるのである。「人間の営み」ということについて私たちが考える時−−そのような考えを私たち自身に提示する時−−に、私たちはしばしば「営み」という概念を一般化し、その営みが具体的・物質的・経験的にどのように行われているのかに接近するのではなくむしろ遠ざかってしまっているように思えるのだ。まるで「営み」が実体を持った概念でありその内実を十全に言い表せているかのように思い込み、それによってその「営み」と言う言葉がそもそも指し示していたはずの具体化の過程から遠ざかるばかりか、『多くの営みが行われているところの、必ずしも認識されているとは限らない日常性』と『多くの営みを明確に分け隔てる境界線の不在』からも遠ざかってしまっているのだ」(同上. p.6 私訳)

[8] 「神学は多くの学術領域と同様に『神話的心象世界が実在しているかのように語る』傾向を持っているのだが、神学特有の『それ自身を超越したもの(神)』への指向性に開かれているために、『記号に現前性が充足しているのではない』と言ったそばから、神学という営みが依存するところの記号が実体を持って存在しているかのようにふるまってしまうとりわけ危険な傾向を持っているのである。言い換えるならば、神学的探究の対象(神)と神学は同一ではないと認め、神学はあくまで人間による一つの営みであることを認識するだけでは足りない、ということだ。そのような認識が神学の設計をどうつくり変えるかにすべてはかかっているのである」(同上. p.7 私訳)

[9] 「(キリスト教に)最も顕著な虚偽性は、神への謙遜な服従が他者を支配する道具として用いられているところに見出される。謙遜な服従と忠誠として描かれたある営みが、その実態を精査した時に−−その真のありようが見出された時に−−人間に内在化する支配を否認し、またその営み(神への謙遜と服従)がその支配に加担している事実を隠蔽する効果的な手段たりえるのだ。……もちろん、これこそが弱者としての私たちが……自分たちの無力を徳とみなし、憎悪を愛と定義するのかについてニーチェが見立てた基本構造だ」(同上. p.10 私訳)

[10] 「私がここで考えている『告白が持ちえる機能』とは、告白が自らの過ちを認めるのと同時に少なくとも部分的にその過ちから免罪され、その告白がもたらすであろうと期待されていたところの帰結−−たとえば、信用の喪失−−を回避できてしまうということである。その人がすでに過ちを認め告発を受け入れたゆえに、もしくは その言説の聞き手に対して脆弱な位置に自分の身を置いたゆえに、その人が受けるはずだった批判は差し止められるのである。ここにある種のキリスト教的言説に典型的な語りの構造が見出されるのではないだろうか。『私は正々堂々と自分の罪を告白してわけです。処罰の免除や回避の希望の内に 』。恥ずべき政治家たちの常套手段である。このようにも言えるだろうか。あなたと違って私は邪悪な権力の力学に加担したことを告白しているのです−−たとえば、自分自身の人種主義を認めているのです−−。だから、『自分自身の悪さについての私の告白』は実際には『私があなたよりもどれだけマシなのかを断言する手段』になっているのです……」(同上. p.11 私訳)

[11] 教会の内と外を二分法的に分けるのには抵抗があるので、鍵括弧付きの「外」とした。多くの社会問題は教会の中にももちろん存在していて、「内/外」の二分法は教会内部の問題を不可視化・外部化してしまう危険性を持っているから。

[12] 「ジャムセッション」と言えば、私が常日頃大変お世話になっている性的少数者クリスチャンを中心とした団体「約束の虹ミニストリー」は、 グラウンドルールさえ守れば誰でも歓迎の学習交流会「虹ジャム」を毎月数回開催しているので是非参加してみてください。粗雑な一般化や決めつけを避けて、一人ひとりの「性/生」と向き合い、関係を育て、言語化していくのは本当に難しくて、失敗を繰り返しながら学ばせていただいています。権力やリスクが常に不均衡に分配されている世界の中で、参加している人たちが安全に、率直に、他の人々の声をかき消さない形で語るためにグラウンドルールはどうしても必要で、そのルールを絶対化せずに、批判的に省察しながら適用していくことを目指しています。(約束の虹ミニストリーのHPリンク:https://yakusokunoniji.amebaownd.com

本当は、この書評の後半部分でトランスジェンダー理論からインスピレーションを受けた、この世界に手探りで参与し、手触りに導かれて、手遊びのように関わり、新しい世界を手作りしていく認識−参与−制作のプロセスによって営まれる神学や教会を夢想したかったのですが、すでに大幅に文字数を超過しているので、いつかまた機会がある時に書いてみようと思います。私のまとまらない書評(もどき)を読んでくださり、ありがとうございました。また、どこかでお会いできることを楽しみに!

 






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