キリストの目は、周辺に 新井健二 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

田舎の教会と聞くと皆さんの頭には、過疎化による人口減少と経済的衰退、神社仏閣の影響が大きく、保守的で伝道が難しいなど、ネガティブなイメージばかりが思い浮かぶかもしれません。そして、それはあながち見当外れではなく、むしろ、まったくその通りであるという実感が、私にもあります。

では、だからといって田舎での牧会伝道などさっさとあきらめて、都会で新しい教会を始めればよいのでしょうか。また、田舎で牧会伝道することに意義などないのでしょうか。否、意義は大いにあると、私は声を大にして叫びたいと思います。

第一に、主イエスご自身もまた、その生涯の多くをユダヤの辺縁である「ガリラヤ」の「ナザレ」で過ごされ、宣教活動を始められた後も、非常に長い期間、そこにとどまられました。聖歌320番「むかし主イエスは」の中に「むかし主イェスは ナザレという 田舎の町の大工として」と歌われている通りです。ですから、「田舎の町」にとどまり牧会伝道を続けることは、まさにそのような主イエスの足跡に従う道であると言えます。

また、「ガリラヤ」という地名自体が、ヘブライ語で「周辺」を意味する言葉に由来することをご存じの方も多くおられると思います。そして、この「周辺」という言葉には、単に地理的な意味ばかりでなく、世の中で無視されたり、軽んじられたりすることで周辺化されている人々が象徴的に含まれていることは「その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる」(イザヤ35章5~6節)という聖書の福音自体からも明らかです。そしてキリストの目は、いつも、そのような意味における周辺に向けられていると、私は聖書全体から確信しています。

第二に、田舎での牧会伝道には、神が創造された被造世界の美しさを、日々、実感することができるという意義があります。ここ数年の私の一つの日課は、早朝、教会の敷地に咲く野の花と、その日の空の写真をSNSでシェアすることです。それは、ある冬の朝、いつものように教会に出勤したところ、朝日があまりにも美しく、思わずスマホで写真を撮ってSNSでシェアしたのですが、それから毎朝、意識して空を見上げるようになると、そのたびにその美しさに魅了され、毎日写真を撮り、シェアせずにはいられなくなってしまったからです。やがて、これまで目にも留めていなかった足元にも目が向き始めると、そこにはどの季節にも、名も知らぬ可憐な花が咲き誇っていました。

それからというもの、まともに雨が降っている日以外には欠かさず、「#主の恵みは朝ごとに新しい」という哀歌3章23節から取ったハッシュタグをつけて写真をシェアしています。

また、教会の近所では、シラサギやアオサギといった美しい野鳥やタヌキやキツネなど野生の動物にもしばしば遭遇します。それがあまりにも頻繁で日常になっているため、時々「おはよう」「今日も元気そうだね」などと声をかけてしまいますが、まだ返事が返ってきたことは一度もありません。

そして私は、そのような日々の生活の中に、創世記1章26節において「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言われている「神のかたち」としての人間の本来の姿を、日々、思わされています。

あらい・けんじ 1977年千葉県生まれ。機能不全家族の中でアダルトチルドレンとして育つも、25歳で信仰に導かれる。友愛キリスト教会(岐阜県各務原市)牧師、社会福祉士、精神保健福祉士、LGBTQ+ ally。趣味は焚き火、映画鑑賞、読書は哲学書から漫画まで、音楽は洋楽・邦楽を問わずロックから演歌、クラシックまで幅広く。

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