12月15日「イエスは、自ら十字架を背負い」

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。(ヨハネによる福音書19章17節)

主イエスの十字架をめぐって人間の罪が露(あら)わにされた。罪のない神の御子(みこ)を十字架にかけた人々の中に、私たちもいる。これほど恐ろしいことはない。

神はご自身が創造した世界を破壊している人間の罪を露わにしつつ、これを救うために、御子を犠牲にされた。旧約の民に求められた動物犠牲は、罪の赦(ゆる)しには、これに相応する犠牲が必要であることを示す範例であった。神は御子において、まさにご自身の身を切る犠牲を払われた。

「イエスは、自ら十字架を背負い」と今日の聖句にあるように、御子イエスは神に逆らう者を愛のみ手に包むために、自ら進んで犠牲となった。仕方がなく、十字架にかけられたのではない。罪を犯している人間のために、進んでご自分の血を注ぎ、命を注いだのである。「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、『ただ一度』聖所に入って永遠の贖(あがな)いを成し遂げられた」(ヘブル9・12)。御子の血による贖いは、全人類にとって、「ただ一度」で十分な、永遠の贖いである。

私たちは主イエスの贖いの恵みを信じればよい。そうすれば、自分の罪がいかに大きくても、まったく赦されて、神のみ手の中にあり、神の子とされていることが分かるようになる。神の子とされた者たちは神を父と呼び、主イエスに伴われ、主が歩まれた道を歩み始める。神の子たちは罪の体が完全に贖われ、世界が更新される御国(みくに)の到来を待ち望みながら、今の時代、祈りつつ、各々が遣わされる場所で、主の愛と恵みを証しして、神の栄光のために生きる。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

この記事もおすすめ