【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスと〈掟〉の問題

「奈落の底」の内実を探る

アウグスティヌスと仲間たちが梨を盗んだのは食べることではなく、盗むことの快楽を味わうことが目的でした。今回の記事では『告白』の言葉に従って、この点について掘り下げて考えてみることにしたいと思います。

「わたしは破滅を愛し、わたしの罪を愛した。わたしはそのためにわたしが罪を犯したものを愛したのではなく、わたしの罪そのものを愛した。わたしの汚れた魂は、恥ずべき行ないによってあるものを求めたのではなく、恥辱そのものを求めて、あなたのもとにある安住の地から、奈落の底に落ちたのである。」

「奈落の底に落ちた」とは非常に強い表現ですが、アウグスティヌスが見ていた「奈落の底」とは一体、どのようなものだったのでしょうか。

「真実の生」とは何かを示されるという、途方もない可能性:『告白』とはいかなる書物であるのか

この点について解明してゆくにあたって、まず改めて確認しておきたいのは、40代のアウグスティヌスはこの『告白』を、「自分自身の存在を超える絶対他者である神から、『真実の生』のあり方を示された人間」という自己認識のもとで書いているという事実にほかなりません。

すでに何度か触れましたが、アウグスティヌスは32歳の時に「取って読め」の経験を通して決定的な回心を遂げ、33歳の時に洗礼を受けました。もちろん、その後にも犯した過ちや、人格的な欠点などは少なからずあったものと思われますが、ここで重要なのは、そうした過ちや欠点は人間として生きている限り、決してなくなりはしないとはいえ、彼には「絶対的な正しさ」のような途方もないものの存在が、絶望の中での救いの経験を通して示されたように思われていたという点なのではないでしょうか。

善や悪のような概念は言うまでもなく、私たち人間が容易に扱えるようなものではありません。この領域においては、「正しさ」なるものをついに掴み取ったと信じた人間が、驚くほどの野蛮へと落ち込んでゆくことがありうることもまた、数多くの実例によって示されています。しかしながら、哲学が古来から、人間存在がなしうる限りの範囲において「〈善〉とは何か」という途方もない問いの答えを探し求めようとする営みであり続けてきたということもまた、否定しえないところです。今回の記事では『告白』の言葉に耳を傾けつつ、「罪を犯すことの根源」について考えてみることにします。

〈掟〉は何のために存在するのか?:「盗むために盗む」という行為の奥底に、アウグスティヌスが読み取ったもの

「あなたから遠ざかり、あなたにさからってたかぶるものはみな、あなたを邪悪な仕方でまねする。」「盗むことの快楽のために盗む」という行為の奥底にアウグスティヌスが読み取ったもの、それは、自分自身を一切の掟に縛られることのない、至高の存在へと高めようとする「高慢」に他なりませんでした。

日常の場面において意識することはあまりありませんが、私たちが生きている人間の世界には、「人間として生きてゆく上で、必ず守らなければならない掟」が存在しています。これらの掟は、「掟」と言ってしまうと非常に抑圧的で厳しいものにも感じられますが、本当は一人一人の人間が幸福に生きてゆく上で必要になってくるガイドラインのようなものであるとも言えるのではないか。この点に関しては、人間の内面において働く「道徳法則」は結局のところ「隣人を自分自身のように愛する」ことに帰着するとしたカントの分析なども参考になるかもしれません。掟とはおそらく、隣人への愛が真実なものであるためには不可欠な条件に他ならないのです。

これに対して、掟を破ることの快楽それ自体を目的として掟を破るとき、人間は、極めて危機的な実存の状態のうちに自らを投げ入れることになります。「じつは、ただあなただけが万物の上にそびえる神であられるのに、高慢が崇高をまねるのである」と、アウグスティヌスは語っています。人間の幸福とは、どこにあるのか。自分自身を「神」のように絶対的な存在へと高めようとして、一切の掟の存在を嘲笑いながら否定することのうちにあるのだろうか、それとも、自分自身の欠点や咎から目を背けることなく、「一人一人の隣人をなしうるかぎり愛する」という、終わることのない日常の務めを静かに果たし続けることのうちにあるのだろうか。「絶対悪」のようなイデーの出現によって自らの価値観を揺るがされている現代の人間にとって、『告白』の言葉には、今なお耳を傾けるべきものがあると言えるのかもしれません。

おわりに

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。」今回の記事は主題の性質上、少し重いものになってしまいましたが、こうした倫理的な省察はおそらく、形而上学的なレベルで考えることと、日常を安らかに過ごすことの間で適切なバランスを取るときにこそ実り豊かなものになるのかもしれません。『告白』読解はアウグスティヌスが17歳になって、青春の盛りを迎える時期へと進んでゆくことになります。

[記事の中でも少し触れましたが、善と悪、あるいは「正しさ」のような概念は、日常生活の中ではあまり触れることのないものであるといえます。「私たち人間に、どこまでそうしたものについて正当に語ることが可能なのだろうか?」という健全な懐疑の感覚を持っておくことは言うまでもなく不可欠と思われますが、その一方で、プラトンやカント、あるいは現代で言えばレヴィナスのように、倫理の領域において何らかの後世に伝えうる仕事を残した哲学者たちは、「善」や「正義」の概念をめぐって考え続けました。私たちの日常においても、たとえば現在のウクライナをめぐる情勢は、「正しさとは何か?」という問いを、平常時にもましてリアルなものにしていると言えるのではないか。思索には状況をすぐに変える力はありませんが、思索することによってしか果たすことのできない務めも、確実に存在します。今回の『告白』読解では、アウグスティヌスの思索をたどり直すことを通して、倫理の領域について考えるための足がかりを作ることも試みてみたいと思います。]

 






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