台湾社会におけるキリスト教の認識 清朝末期から日本統治初期の歴史的考察 王 政文 【この世界の片隅から】

これまで台湾キリスト教史や日台キリスト教ネットワークついて触れてきたが、今回は、清朝統治末期の台湾社会がどのようにキリスト教を見ていたかを紹介したい。こうした歴史に触れる時、私たちは日本においてであれ、台湾においてであれ、今日の宣教に対する示唆を得ることができるだろう。

天津条約(1858年)により台湾が開港されると、キリスト教布教を認めた条約内容に基づき西洋の宣教師が来台するようになった。当時の西洋教会は戦争がキリスト教精神に相反していると考えていた一方で、これらの条約が福音を広める契機となるだろうとも考えていた。しかし一般民衆の目には、宣教師の到来と戦争・不平等条約・開港・外国商人などは関連した出来事として映っており、これらの外国人はすべて「蛮人」(中国語「番仔」)と見なされていた。実際には台湾に来る外国人の身分や目的はそれぞれ異なっていたが、同じ通りにはアヘンを売る人も伝道をする人もいるといった状況が見られ、民衆は宣教師と外国商人を区別できず、誤解が生じることもよくあった。

「三位一体の唯一の真の神」が台湾に紹介された時、民衆はその教義や儀式が持つ宗教哲学をなかなか理解できていなかったこともあり、キリスト教に対して直ちに反感を抱くことはなかった。当時の台湾の民衆にとってキリスト教は完全に未知のものであり、宣教師たちは伝道を始めた当初、しばしば「和尚」として扱われることさえあった。宣教師が遠隔地に伝道に行くと、地元の有力者や寺の住職が宣教師を寺に泊めることもよくあり、また宣教師が寺の広場で福音を語ろうとすると、民衆はそれを「聖諭」(皇帝の勅令)の宣言と思い込み、寺の中で話すように求めることもあった。しかし、それが「祖先崇拝をしない宗教」であり、「蛮人の宗教」であることが分かると、民衆のキリスト教に対する態度はすぐに硬化してしまった。

地元の有力者がキリスト教の勢力に脅威を感じ、民衆もキリスト教が現地文化とは異なり、偶像崇拝を禁止することに気づくと、瞬く間に排斥感情が生まれた。「西洋人が邪教を広め、人心を惑わし、子どもの心臓や目をくり抜いて霊薬を作って売っている」「蛮人が宗教を始めて人々の財産を奪おうとしている。彼らの宗教に加わるには、祖先崇拝をしている位牌を破壊し、家の中の神仏の像を撤去しなければならない」「彼らの薬を飲むと、彼らの宗教に加えられてしまう。豚や狗もその薬で惑わされ彼らに従っていく」といった悪いうわさが雪だるま式に拡散した。荒唐無稽に聞こえるデマだが、それは西洋人に対する疑い・蔑視・恐怖など、当時の人々の心理を反映していた。

地方の有力者・知識人たちが守ろうとしたものは、主に彼らの社会的地位と知識体系だった。一般民衆もそれを支持したが、彼らが特に重視したのは地元の慣習と日常倫理の安定を守ることだった。焼香せず、仏を拝まず、祖先を祭らず、教会では男女同席するようなキリスト教信者は、社会全体にとって伝統と人間関係・倫理秩序を破壊する輩(やから)と受け止められたのだった。

清朝末期に流布したキリスト教を邪教として批判する絵(「謹遵聖諭辟邪全図」より)

こうした民衆の間で広まったデマや悪評は、概ね三つに分類できる。

第一の類型は、キリスト教信者が祖先崇拝拒否など伝統的な倫理・価値観に従わないことへの批判だ。「信者が死ぬと、すべて教会側が処理し、他の人々の哀悼の意や親戚の訪問も許されない」「祖先の米を食べながら、外国の教えを信じ、国法に従わず、親も神仏もない」といった批判は、固有の家族倫理の価値観から来ている。キリスト教信者は親不孝であり、既存の人間関係と秩序を破壊していると見なされていたのだった。

第二の類型は、キリスト教信者が外国人に依存して利益を受け取っている、といった軽蔑だ。これは、地元で評判の悪い「ならず者」が特定の利益を得るため外国人にすり寄ってキリスト教に入信するという状況が起こっていたことに起因する。そのため、社会一般ではこうした入信動機やキリスト教そのものがマイナスに見られてしまい、「蛮人に依存する輩」と西洋人が結託しているという印象を与えてしまっていた。

第三の類型は、キリスト教信者を「邪教徒」と見なすと偏見だ。これは、キリスト教の儀式や振る舞いが奇妙なものと見られていたことによる。例えば、礼拝堂で賛美歌を歌う信者を見て、礼拝堂の外には多くの人々が好奇心から集まったが、礼儀正しく中に招き入れられると、こうした礼儀正しさがかえって人々を遠ざける結果となっていた。

最も頻繁に起こっていたのは、そうした人々が勇気を出して中に入ったものの、信者たちが起立して頭を垂れながら祈る時、その祈りの「呪文」によって「イエスの信者」に変えられてしまうのではないかと恐れて、驚いて逃げ出すという状況だった。聖書を読んだり、賛美歌を歌ったり、祈ったり、言語を学んだりするのはキリスト教信者の日常生活の一部だが、こうした振る舞いは、当時の台湾の民衆の目には極めて奇妙に映るものだった。

日本統治時代(1895~1945年)になると、日本政府が推進した西洋医学・科学教育、・現代文明などは、図らずもキリスト教がもたらした西洋の医療・科学・文明観と一致するものだった。そのため、日本統治中期になると、新聞記事ではキリスト教に関する評論が見られるようになり、「キリスト教は布教に熱心であり、その効果が徐々に現れ、台湾全島で信者が見られるようになった。……こうした信者は少数ではあるが、今日のように徐々に一定の公益を広めている」と評価されるほどだった。

また1935年のある新聞記事では、一般の人々がキリスト教信者を「世の中のことを良く理解しており、新しい考えを持ち、迷信的でなく、医学で人々を癒し、社会で尊敬されている」と評価していることが指摘されるまでになっていた。このように、日本統治中期には社会全体でキリスト教信者に対する好意的な見方が広まっていたことが分かる。こうしたキリスト教に対する認識・評価の変化がどのようにして起こったのかについては、次回に続く。

(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)

王 政文
 おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授・同学部主任。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。

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