4月8日「神の『然り』に身を浸す」

礼拝を行う最終結果はわたしたちの生き方が180度変革させられることである。わたしたちは「否」と言ったり、拒絶したり、拒絶される経過を積み重ねながら神に近づいて行くのである。そうして神の御座に到着した時に、わたしたちは神の「然り」に浸されている自分を見出す ―― その「神の然り」は、わたしたちの全ての「否」を沈黙させるのである。また、この「神の然り」は、わたしたちの中から「然り」という返事を引き出すのである。自我ではなく、神が中心である。わたしたちが神の周りを行きながら、「これは『然り』と言える」とか「あちらは駄目だから『否』と断る」とか色々計算するものではない。礼拝において、わたしたちは「確かにそこに実在する方の声に耳を傾け」、そして、神に応答する者となる。罪が唆す前提とは裏腹に、自分はもはや現実の拠点ではなくなる。
幼児期から、わたしたちは「調査」とか「搾取」という方法でこの世と関わるように訓練されている。つまり、拒否したり、掴み取ったり、押したり引いたり、待ってやきもきしたり手を回して誘い込んだり ―― そのようなことを通じて世界と関わるように、わたしたちは訓練されている。「知ろう」としたり「使おう」としたりするのは自我の働きである。「自我」は「略奪者」である。だが、礼拝において、わたしたちは略奪者であることを止める。「略奪者」である自我は、その手を伸ばしてあらゆる人に接触し、自分の中心に引き込んで侵食してしまう。礼拝において、わたしたちは「この中心」に応答する。「栄光ある聞き手」となり、「創造し、贖う神への自分を献身する者」となるのである。まことに「アーメン」である。その「アーメン」が勢いよく響きわたる。それは頑強で活気に満ちている。その「アーメン」には「委縮」や「用心」や「臆病」というものは全くない。そこには、唯、あらゆる否定的なことを追放する、応答の言葉だけである。

何であれ、神が約束し給うたこと全て、「イエスのり」というが押されている。
わたしたちが御言葉を語り、祈る時、
それはイエスの内にあって
「大いなるアーメン」となる。
「神の然り」と「わたしたちの然り」は一つとなる。
それは輝くようにはっきりとする。
神はわたしたちを肯定するのだ。
神はわたしたちをキリストにおいて
確かな者としつつ、
私たちの中に「キリストの然り」を据えながら、
神がわたしたちを肯定してくださるのだ。
―― コリントの信徒への手紙(二)1章20~21節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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