5月10日「なぜ、泣き騒ぐのか」

なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。(マルコによる福音書5章39節)

会堂長のヤイロは、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言って、主イエスにひれ伏した。主は父親の切実な願いを聞いて彼の家に向かった。しかし、途中で一人の女性と関わることによって、主の歩みは中断した。

そこに家から使いの者が来て、娘の死が知らされ、ヤイロの願いは打ち砕かれた。使いの者は「もう、先生を煩わすには及ばない」と言った。すべてが終わったと思える状況の中で、主イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、彼の家に向かった。そして、家に入ると、大声で泣きわめいている人々に今日の聖句を語った。
この言葉を聞いた人々は嘲笑(あざわら)った。しかし、主は人々の嘲笑いを聞き流して、死んだ子供のいる部屋に、ヤイロ夫婦と三人の弟子だけを連れて入った。そして、「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」と言って、眠っている者を起こすように、死んだ子供の手を取って起こした。

主イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じた。なぜか。この蘇生の奇跡は、主ご自身の十字架の死と復活から切り離して、受け止められてはならないからである。これと切り離して、奇跡だけが語られるならば、誤解は生まれても、主イエスに対する正しい理解も信仰も生まれない。死が不条理であるのは、人間の罪のためである。しかし、神の御子イエスがすべての人のために死んで、罪の贖(あがな)いとなり、神と和解させてくださった。それで、主イエスの憐(あわれ)みを受ける者には、死はもはや死ではなく、御国に目覚める日までの眠りなのである。

 






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