【クリスチャンな日々】第27回 小さなことができれば大きなことは楽勝 MARO

主の御名をあがめます。

MARO
です。
今回もゆるゆると書かせていただきます。よろしくおつきあいくださいませ。

最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。(ルカ16:10)

これはクリスチャンであるなしを問わず、日本人に特に人気の聖句です。小さなことからコツコツとやるのが大切だと、日本人は小学校や幼稚園から教わって育ちますから、その価値観にぴったりフィットするのだと思います。

でも少しこのことばって重く感じませんか?聞きようによっては「小さなこともできない奴に大きなことができるわけがないだろ!」とか「小さなこともできない奴はダメな奴だ!」とか「大きなことをやっている俺は小さなことだって当然できるから偉いんだ!」とか聞こえてきませんか?

もしかして、これは単に僕がひねくれているからなのかも知れませんけど、でも少なくとも僕にはそんな風に聞こえたので、それであんまりこのことばが好きじゃなかったんです。それと、なんだか「小さなことをやるのは大きなことのためだ」というのは、目の前にある「小さなこと」を過小評価されているような気がして嫌だったんです。「その小さなことをちゃんとできたら、もっと大きなことをやらせてやるよ」みたいな「上から目線」も感じてしまったりもしたんです。

でもある時、ふと思いました。このことばってもしかして「小さなことができるなら、大きなことなんて楽勝だぜ!」って意味なのではないかと。そう思ってみたら、目の前がパッと明るくなったような気がしました。だって、いつも大きなことのために小さなことをするなら、人生はいつまでも「未来のため」であって、いつまで経っても「今の価値」がないじゃないですか。小さなことはそれ自体で十分に価値があって、それは大きなことのための礎(いしずえ)ではないんです。そう思ったら「今」が楽しくなりました。

確かに技術や経験という面では、大きなことは小さなことよりも難しいかもしれません。小さな経験なしに、大きなことはできないかもしれません。しかしここで聖書が言っているのは「忠実である」ことです。これに関しては、むしろ大きなことよりも、小さなことの方が難しくありませんか?例えば年に一度のパーティで腕によりをかけた料理を作ることはできても、日常の料理を作ることには手を抜いてしまったり。年に一度、腕によりをかけた料理を作る人は必ずしも毎日の料理はできません。が、毎日の料理に手を抜かない人は年に一度の料理もきっと作れるはずです。そして、どっちが家族をより幸せにするかと言ったら、年に一度の料理よりも毎日の料理の方です。

そんな意味で「小さなことができれば、大きなことは楽勝!」と僕は思ったんです。

もっとわかりやすい例は「感謝」かもしれません。例えば年に一度の料理を作ってくれた人に「ありがとう」と言うのは誰にとってもきっと難しいことではありません。でも毎日の料理を作ってくれる人に「ありがとう」と言うのは意外と難しかったりします。100万円をくれる人には「ありがとう」と言っても、100円をくれる人には言えなかったりします。つまり小さなことに「ありがとう」と言えるなら、大きなことに「ありがとう」と言うのは楽勝だってことです。「小さなことに感謝できない奴は、大きなことにも感謝できない」なんて、誰も思いませんよね。

そんな風につらつらと考えるときっと「忠実」って「感謝」のことなんです。例えば忠実な家臣というのは、主君に感謝や恩義を感じて働くものです。感謝なしに忠実であることは難しいんです。ですから神様に忠実であろうとするならば、神様に感謝することが必要ですし、神様に感謝するためには、まず神様からの恩義、つまり恵みをたくさん受け取る必要があります。小さな幸せに丁寧に気づいて、それに感謝することからこそ、忠実な姿勢が生まれるのではないでしょうか。

「ありがとう」の数が忠実さに比例するんです。ですから何かに忠実であろうとするならば、まずは「ありがとう」を増やすことです。

それってきっと、神様との関係だけに限りませんよね。仕事に忠実であろうとするなら仕事に感謝することですし、家族に忠実であろうとするなら家族に感謝することです。大きな感謝は誰にでもできると言いましたが、それは大きな幸せは誰にでも感じやすいからです。小さな感謝が難しいのは小さな幸せは、小さい故に見つけにくいからです。

さて、そんなわけですからまず今日のごはんを丁寧に作ろうかと思います。大根とあぶらげを煮ようかしら。
MARO
でした。

主にありて。

 






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